病人と看病人 10
自分を売り込む親切
病人が不安な空想を抱えて蒼くなっているよりも、10億円持っている方が、回復するには都合がいい。だから看病人は、病人を弱い方向に空想させてはいけないし、病人に疑心暗鬼を生じさせるいろいろな言葉を使って臆病風をそそり立ててはいけない。「癌ではないか」「そういうのが体に悪いのですよ」「しっかりすれぱ大丈夫です」などと、しっかりしていなくては尚更悪くなるようなことを言ってはいけない。
自分が親切であることを相手に認めさせようとする場合はそのような売り込みが要る。そこで病人が自分で起き上がれるのに、抱き起こしてやらなけれぱ起きられないという印象付けを行なう。病人の方は、自分は抱えられなければ起き上がれないほど重病なのだと思い込む。肩に落ちているフケまではたいてやる。元気だったら、無い埃をはたいて「挨がありますよ」と、おべっかを使っているなと思ってしまうが、病人の場合には、それが親切で好意で、情深い人に思える。
看病人が、自分を相手から良く見られようとする方向に気を使っていると、看病人の方が病人から見られる立場になってしまう。それは悪い結果しかもたらさない。
話のわかる親父でありたい、叱言をいわないヒステリックでないお母さんでありたい、子供にそう見せようとして、ただやたらに褒めあげて叱らず、言うべきところを黙っている親が多くなっているが、それも自分を売り込む看病人と同じ類である。
だから「病気」を見る看病人は最も良く、「病人」を看る看病人は次に良く、病人に見られようとする看病人は全く価値がない。しかし、ともするとそうなってしまう。また看病人だけでなく、教師が生徒の人気を得ようとしたり、親が子供の機嫌を気にしたり、姑が嫁に自分のモダンさを示そうとすることは、何らかの自分の目的を通そうとする行為で、真に相手のためを思ってする行為はではない。
しかし看病という名の下ではそれが公認されている。親切というオブラートで病人のためでなく、自分のために自分を売り込んでいるような看病人は多い。だから看病する人には相手の全体を導いていくとか、或いは病気の経過を手伝うとかいう「心構えが最初に要る」。心構えなしの看病は、初めは親切であっても、それが繰り返されると病人製造法になってしまう。
好意とか庇いとか親切とかは、病人にとっては撥ねつけることができず断り難い。看病という労りの名のもとで、体を大事そうに抱え上げてくれたりすると、その時一回はそれでよかったのに、数が重なると、病人はそれを期待するようになり、それを断るどころか、その為に尚更病人になってしまうというような場合も少なくない。
子供が転んで泣くと起こしてやる。自分で立ち上がれるのに起こしてもらうと、次からはそれを期待して泣きだす。そうして貰わないとそのことを不満に感じて、その不平の為に更に泣く。それと同じで、病人でも、相手の不注意を責める為に更に熱を出したり、痛み出したりすることだって少なくないのである。