病人と看病人 13
証明のつかないこと
「あなたは亭主の看病に倦きたんだ。そのあげく自分が病気になった。亭主が自分に妙なことを言った時、もう看病してやるものかと思った。そうしたら心臓が苦しくなり、心悸充進を起こしたのだ。なに、そういうのはヒステリーだよ」と、本当のことを面と向かって他人が言ったら、きっと頑として否定して、もっと寝込んでいただろうと思う。
しかし、雑誌ではそんなことは言わないから、ハッと自分で悟った。そういうことは、自分で気付くより他なく、人から指摘されれば逆にそのことに固執してしまう。困ったことに他人の言葉では逆の方向にも行ってしまう。「お前は女らしくない。少し女らしくなれ」などと言われると、いよいよ男っぽくなるようなものである。だから心の中のちよっとした変化で体も変わる。看病するのが嫌だといっても、長い間連れ添った相手が急に嫌になるというわけはない。
きっとその病人が「妻だから看病するのが当然だ、早くやれ」などといったようなことから嫌になったか、或いは病人が病気を誇張して「エヘン、エヘン」などと咳をしているのが嫌だったか、はっきり口で表現出来ないことで嫌になった。感情のすべてを動かさないところの、何か訳の判らないことで嫌になった。それに後から理由をつけたのだろう。そしてその理由のみを覚えていた。だから看病すればまた病気になるかもしれない。
このように人間を動かすのは大きな心の変化ではない、主義でもない。激しい怒り、激しい不愉快さなどは、台鳳一過、一時で通り過ぎてしまう。体の中の余分のエネルギーを動員して大きな体の変動を作りだすものは、実際は理屈にならないちょっとしたことである。