病人と看病人 3
看病人の親切
ところが、その看病人が病人を大事にするのも、第三者に見せるために大事にしているという場合もある。
看病人の一生懸命というのは、特に怖い。
仮病をやめる
私は十六才の時、仮病はやめようという決心をした。
そうすると、嫌いな人が面会に求めてきても「ちょっと風邪なので失礼」と言えば済んでしまうのに、それができない。「あなたに会うのは嫌だからお断りする」と言って断わるより他ない。
病気さえ使えばもっと要領よく、人の気に障るようなことを言わないで暮らせたと思うが、仮病を止める決心をしてからは、どうしても病気を使えない。
「馬鹿だ」と、よく言われたけれども、「馬鹿でも、自分に嘘をつくよりはいい、俺は仮病を止めたんだ」と思ってそのまま通した。そのように仮病を止めたら本物の病気もやらなくなってしまった。
人間関係に於ける潜在意識の行動
一人の心は、もう一人の心の働きかけ、例えば病人と看病人、嫁と姑というような間柄で絶えず影響しあっている。その影響しあっているものが、個人個人を意識的な要求とは別の方向に動かす元となる。そうしてはいけないんだと意識では思っているのに、そうしてしまったり、
生活している人間の体
いずれにしても人間の体は、個人個人が独自の働きをしているが、一人でなく二人以上の人が生活しているとなると、見せ合うためにとか、補償金をもらうためとか、いろいろな要素が出てくる。一人きりだと、要求しても主張しても仕方ない。
だから生きているということは、主張し、要求し、いつも他に対して働きかける力であって、それをむしろ個人と呼ぶべきではないかと思うのである。
性エネルギーの現象
病人を見るという見方も、一人ではなく二人以上の存在として見ると、病気の中にもいろいろな心の働きがあり、要求の表現があり、主張があるということが判る。
大人になると恥ずかしいことで顔を赤くすることがだんだん少なくなってくる。
体の中に「性」のエネルギーがあるうちは赤くなる。笑うにしても声が高い。病気になる場合も同じで、そういう「性」がいろいろな病気に化けて、同じ痛いのでも我慢できない程痛くしたり、人が転んでもゲラゲラ笑ってしまったりというように、裡の要求を押さえられなくなって、善悪の分別を超えて表現してしまうのである。
だからその人の力、人に働きかける力は、行動によらず、言葉によらず、体の裡に「性」エネルギーが働くだけで、何倍にもなって人に影響してゆく。