人の為と書いて“偽り”と読む
「なあ、若いの」 「はい、何でしょうか」 「おぬし、なんで鍼灸師になった?」 そう言って一遍斎は私の目をじいっーと覗き込んだ。 力のある、嘘をつくことを許さない目であった。 「人の為に何か役に立つ職業に付きたかったからです」 嘘ではなかった。鍼灸師を志したとき、確かにそうした考えが私には有ったからだ。 けれどもそんな答えでは、この一遍斎翁の深い瞳を納得させるものではなかろう事が私には分かっていた。
「“人の為”と書いて“偽り”と読む」 一遍斎翁は静かにそうつぶやいた。 私は絶句してしまった。 漢字を書いてみるまでもない。確かに考えてみれば「人の為」と言う考え方ほど、おこがましいものはない。正確に言えば「人の役に立ちたいと考えている自分の為」であって、人生はあくまでも自分がどうしたいかでしかないのだ。
「若いの、人間はな、人の為になど生きられんのじゃよ」 そう言って翁は、じっと茶碗を見つめた。 「例えば、このお茶だ。このお茶は女将がワシらのために入れてくれたものじゃ。だが、このお茶はワシらのためにあるが、女将はワシらのためにお茶を入れたわけではない」 禅問答のような翁の言葉のいわんとしていることが、私には理解できた。確かに、女将は自分の旅館の経営のために一杯のお茶をいれるのである。しかし、そういう言い方をしてしまっては、みもふたも無いではないかと私は思っていた。
「鍼灸も同じ事よ。確かに鍼灸の技術は苦しんでいる人のためにある。しかし、問題なのはそれを使う人よ」 「どう言うことでしょうか」 「おぬし、鍼灸を学んでどうする」 「病気や痛みのある人、苦しんでいる人を楽にしてあげるために使いたいと思います」 一遍斎は、手にした茶碗を、少し回し、一気に飲み干した。そして茶碗を置き、一瞬窓の外の緑を眺めて少し笑ったような気がした。そして、今思えば非常に核心的な事を話し始めたのだ。
「苦しんでいるのはおぬしではないかな?」 「…………」 少しの沈黙があった。 「おぬし自身が楽になりたいのであろう?」 「……」 「その為に人を楽にさせてあげたいのであろうが」 私には、何も言葉がなかった。言われてみれば、私自身の中に、自分の行為により、人に喜んで貰いたい。喜ぶ人の顔がみたいという想いが確かにある。そして、喜ぶ人の顔をみると、それが生きる糧になるような気がする事が少なくなかった。 「人の為、人の為と言う輩はのう…」 そう言うと一遍斎は魔法瓶のお湯を急須に注ぎ、しばし茶葉の開くのをまったあと、自分と私の茶碗に注ぎ、急須を置いて言葉をつないだ。 「己が人生を楽しんでいないのよ」
「人の為、人の為と言う輩は己が人生を楽しんでいないのよ」 一遍斎はそうも言った。 確かに考えてみれば「人の為に役立ちたい」などということは大それた考え方だ。 「苦しんでいる人を楽にしてあげるために鍼灸を学びたい」 と、言った私の言葉に一遍斎は、 「苦しんでいるのはおぬしではないかな?」 というのだ。 一遍斎はこうも言った。 「おぬし自身が楽になりたいが為に人を楽にさせてあげたいのであろうが…」 そして、それは私自身が、自分の人生を本当に楽しんでいないからそういう考えをするのであろう、というのである。
治療の世界というのは、病人や身体に不調を抱える“患者さん”といういわば弱者を相手にする職業である。 そうした人達に「先生」と呼ばれる仕事というのは、特殊というよりも、安全圏に守られた一般社会とは別の世界といっても良い。 治療家とはいわば、助けを必要としている人が存在することによって、自分の生きる道が見つかる職業なのである。 「人を楽にする」とか「人に喜んで貰える」などという理屈は所詮治療家の驕った自己満足に過ぎない。 ……
鍼灸小説より抜粋