病人と看病人 2
「病人と看病人」
異常を示したい心
一人と、大勢の中の一人
病人と看病人の問題ということは、とりもなおさず人間の潜在意識のコミュニケーション、すなわち心の伝わりあいの問題である。
病人はいつも個体として扱われ研究されている。ところが実際に生活している人間が病気になった場合には、個体以外の一人の人間が出てくる。看病人が加われば二人、更に医者というものが出てくれば三人の問題である。また休んでいる為に起こる勤め先の関係など、いろいろ問題がからまり、いつでも「一」でなく大勢になる。大勢という関係の中の一人として見ることと、ただ一人を見るということでは問題が非常に違ってくるのである。
看病する者とされる者
病人の場合でも、看病にまわると、その方が早く良くなる。逆に看病される方は、何ともなくても、あまり周りで大袈裟に騒ぐとすっかり病人のつもりになって、本物の病気になったように思い込み、自分の悪いところばかり探すようになってくる。だから看病人の伴奏が上手だと、病人はいつまでも病気を保つ。
看病人は病人を大切にすることによって、いつもでも病人にしておくことになる。つまり看病人が病人に、病人であることの快感を教えてゆくのである。
つまり看病人が、子供を育てるように、病人を育ててしまっている。そうしておいて「なかなか病気が治らない」というようなことを訴えるのだが、治らないのか、治さないのかは、病人と看病人の関係がはっきりしないうちは判らない。
病気でありたい要求
看病された快感で病気になっている人達は、だんだん病気の効用を知っていき、それを知ってしまうと、自分の出す力の加減が、自分の要求する方向に動いてゆく。
病気だから力を充分出せなかったのだと、自分にも周りにも言い訳するために病気になる。だから人間の体には、時々病気でありたい要求、病気になりたいという要求があり、それに応じて病気になるのである。
夫婦の生活でも、亭主が嫌になったというような時、嫌になったと言えないで病気になる。そういう婦人病は相当に多い。婦人病でも、いろいろの原因でなると言われているが、その中に亭主が嫌だから病気になったとか、住んでいる家が狭くて家族が多く、それに気兼ねして要求が果せないで病気になるとか、いろいろ問題が含まれている。
そういう二人以上の人達がいるために起こる病気・あるいは二人以上の人達によって育てられる病気・病気の効用を知ってしまってなる病気など、病気は必ず「複数の人間が関係」しているのであって、山の中に一人でおかれて熱を出し、カッコイイからもう少し病気になっていたいなどとは思わない。やはり周りで騒いだり、看病したり、親切にするから病気になっていられるのである。
Aさんの幸せ
病気をして快感を持ち、病気を保つことによって幸せになったというなら、これほこれで良いと私も思うけれども、当人が人が病気に悩んで治りたいと思っているのに治らないとなったら可哀相である。そしてその病気自体が、当人も気づかない要求によってあるとなると、尚可哀相である。
もっと早く治りたいと言う人ほど、もっと病気していたいと思っている。そういう病気していたい心に言い訳までして早く治りたい、治りたいといいながら、なぜ早く治らないのだろうか。
もう一息で治るなどと言われると医者をサッと変えてしまい、薬をサッと変えてしまう。それでいて「あれをやっても治らない」「これをやっても治らない」と言うが、治りそうになると不摂生をする。「ついやってしまった」と言うが、ついやったのではなくて、治っては困る要素があるからである。病気の中には、そういうように病人でありたい要求によってささえられている病気もかなりあるのである。