心の病いと体
うつ病など「心の病い」と呼ばれる一般的な治療法は、薬やカウンセリング(心理療法)が主ですが、仕事柄、身体の方から、心(脳?)の働きを整える方が良いのではないかと思っています。
脳内の神経伝達物質が働かないのなら、それが働くような身体に変えてゆく。
最近の手技療術やボディーワークでは、その技法が進んでいます。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言われます。
その逆もまた言えますが、一般的な治療法に加えて、もっと体に目を向けてみよう!
下記ご参考に
インタビュー
成瀬悟策
B:先生が、催眠から自律訓練法へ、そして動作療法へと移られていったのは、心を分析することよりも、実感の仕方、体験の様式そのものが変わることを中心に考えてこられたからだと思います。
動作というのは、ほとんど無意識的な動きです。
意識にのぼらないけど自分が「する」こと、できるということが、たいへん大事だと僕は思っています。では、身体を動かしている感じは全く無意識かというと当人にはそれがわかっている。わかっているけど意識的にはわからない。自分がやっているんですから、当人にとっての感じはあると思うんです。
ヨーロッパやアメリカで発展した精神分析や心理療法は、結局意識的にわかること、知る事、理解することが大事だと思っている。それは伝統的に、考えたり、知ったりすることが人間として生きている証だと考えていたからじゃないですか。だから、心理療法というと、心の問題ばかりやっている。フロイド以下、今の心理療法というのは、カウンセリングまで心理的に何かがわかるとよくなると信じているところがあるんですよ。
そうやって解釈し過ぎてきたので、世界の心理療法がだいぶ遅れたんじゃないかと思います。
本当の心の活動をしっかり捉えようとしてこなかったからです。それを言うと、今までの精神分析からカウンセリングから、みんな壊れてしまいますから、みんなは大きな声で賛成しませんけれどね。でも、そういうことと全く関係なしに、身体のバランスを変えるだけで心の病が取れてしまうことがある。
神戸の震災があった時、私はボランティアに行きました。ところが避難所に「心理の先生お断り」という看板が出ているんです(笑)。「なんで?」と聞いたら、せっかく夜寝られるようになったのに、心理の先生が面接にくると、眠れなくなってしまうと言う。震災の話ばかり根掘り葉掘り聞くから嫌だというわけです。先生方が子どもに絵を描かせると、みんな魚とか花の絵ばかり描くという。震災の時の絵を描けとやると、やっぱり寝られなくなってしまう。しょうがないから「心理按摩」ということにしたら、だいぶ来ました(笑)。
診るともう、身体がこけし人形みたいに硬いんですよ。カチンカチンなんです。その中で、割合早く身体が柔らかになったお嬢さんがいて、今まで何もやる気がしなかった人なんですけれど、翌日になったら「職場に行ってみます」と言い出した。子ども達も、だいぶ経ってからは震災の事も描けるようになるんです。あまりいじってもしようがない。知りたくなった時には知ること、想い出すことも必要かもしれませんが、それ以外は放っといた方がいい。
B:心理的な傷も肉体と同じように、時間と共にだんだん治るような作用があるんでしょうね。
ある時、「あっ!」と特異な体験をする時があるんです。
その後良くなる人が多い。何か心の傷が治るような事が起こった時の、緊張感とかそういうものはなかなか言葉では言えない。理論的に説明できることじゃなくて、「ある実感」というのがあるわけですね。
こういうことがありました。ある娘さんが電車に乗った時に人の肩が触れた。そしたらレイプされたことがくわっと出てきたという。フラッシュバックが出てきたから大変だとみんな思っていますが、本当は出てきたからいいんです。ある程度出せるようになったから、出してきたのであって。必ず出なくてはだめという事ではないんですが、出てくるようになったら、もうそれだけその人が強くなったということです。そして、フラッシュバックの時というのは、細々としたその場面が出てくるよりも、全体的な印象、「ある雰囲気」がぱっと出てくると言う。そして身体がくっと緊張する。本当はその時に力を抜いて、「こんな事あったな」という身体の実感を持つともっと楽になる。
どうもその方法が大事らしいと思うようになりました。
言語化することを通して洞察や理解が進んでよくなるというのが現代心理療法の原則とされているんですが、私の経験からすれば、それは必ずしも当たっていないと思います。
欧米人の信仰のようなもので、東洋とは違うし、私の経験とも違う。
私によれば、だから喋ることが大事なのではなくて、その人の体験の仕方、心の構え方の変わる事が大事なんだと思います。ノイローゼが治ってから、よく喋る人がいる。でも僕は、もう喋れる程にこの人は変わったから喋っていると思っている。「昔こんなことがあったんですよ」という話が後でゆっくり出てくる。それをじっくり聞かなくても本当はかまわないんです。それはまあ、全然人の話を聞かないんでは悪いから聞いてもいいけれども、それは本番じゃないよと言っている。よくなった当人は、自分のこれまでの経験を整理しているんですね、
そのこと自体は結構なことですが、必須条件ではない。
どうしてもそこを根掘り葉掘り聞きたい人がいるんですね。臨床心理というのは、そういうおせっかい屋が多いんですよ。聞かんでもいいことを根掘り葉掘り聞きたいんです。そんなことやっていてもだめだと思うんですよ。そういうことも、以前はなかなか言えませんでした。70歳を越えた頃になって「オレも言いたいことも言わないで死んじゃったんじゃつまらない。もうこの歳になったら恥も外聞も無いから言いたいこと言おう」ということにしたんです。そしたら、その通りだという人が結構出てきて(笑)。
インタビュー
桜井章一B:自然な身体とは、どのような状態のことでしょうか?
今の世の中って、知識や情報が主体の世の中になってるじゃない。何でも情報でどうにかできるっていう。情報はお金になるし、それで飯が食える。だけど昔は、あたりまえに生活の中で身体を使うという時代があった。生きるということそのものが身体を使うという事だった。そうすると自然に食べるために身体を使うわけだから、それはもう自然な身体の使い方になってくる。
知識や情報を優先する、それが上だと位置づけられる時代だから、肉体を使うことがちょっと下に下げられている。だからみんな頭でっかちになってバランスを崩している。本人はよいことをやっているつもりでも、肉体を使うことを忘れて、精神性だけを鍛えようとするから、かえって病になっている。
自然というのは、全体でやらなきゃならない。
全体でバランスをとり、流れるようにリズムをとる、それが自然の動きというもの。一部分を鍛えるのはもう自然じゃない。それでみんな体を壊すんだよ。
それに、柔軟性、柔軟性ってよく耳にするけど、自分の身体が硬かったらウソですよ。頑固って自分に囚われている証拠です。だから信念とか意志の固さが、マイナスに働いて、偏りのほうにいってしまう。偏りとか囚われることは、とても怖い。
正しいことでもあんまり囚われすぎると、自分の道を失っていくんです。そうならないために、自分の持つ「質」というのはやっぱり変化させないといけない。俺の柔らかさというのは、別に鍛えたわけでもなくて、天性のものなんですよ。だから与えられた物を、ありがたく使わせていただいている。このお陰で雀鬼になれたんです。
B:柔らかい身体になることで、
新たな感性も身につくということですね。
人間というのは選択する動物であると同時に、生命の連続性を保つために生きているという見方もできる。生命自体が尊いんじゃなくて、生命が絶え間なく続いていることが尊いという感覚にならないといけないんです。命が尊いなんて言っているから、人の命をダメにしたり、自分さえよければっていう感覚になることがある。
自分の命を生命の流れのなかで見れば、食べ物も尊いし、空気も尊いし、人の出会いも尊い、いろんなものに尊さを感じることができる。そういう感覚を身につけて初めて感謝心というのが自然に出てくるわけです。
言葉先にありきじゃないわけです。
何か自分のなかで体験し、行動した上で言葉に結びついている。感謝っていう言葉がある、愛っていう言葉があっても、それが言葉で終わっている以上は何もないわけ。そこで愛というのを体験してこないと。憎悪でもなんでもいいですよ。なんでも体験してきた上で実感しないと、それが感性だと思う。感性というのは先にいくんじゃないんだね、戻ったところにあるわけ。感性なんて、ほとんど本能です。