人間の探求2
裡なる自然のはたらき
「裡なる自然のはたらき」
よく心理指導というと、希望を与えたり、いろいろ慰めたり、又上手に説得をしたりするようなことや、或いは推感法的な暗示を与えるなど、指導という名称のために何らか相手の心にはたらきかけることだと思われているようですが、その考え方は本当の意味の指導というものとは違うのであります。
本当の指導は、相手の心に対して何らかの手段を弄することではなく、強いていえば、直接相手の人間そのものに手段を介さずはたらきかけることであります。相手の心の中の細かい部分にまで触れていって、追従したり、慰めたり、宥(なだ)めたり、或いはあべこべに強制したり、嚇したり、脅かしたりするような手段方法を用いることではない。
いろいろな手段方法はみな意識を対象にしたもので本当の指導ではないということであります。
競争心で努力させようとか頑張らせようとか、もっと積極的に闘争心をそそって成績をあげようとしておりますが、そういうことは心を利用しているだけであって、心そのものを高めるものではありません。
我々の行うことは心を静めて高めて、それが体に反映するようにしむけることが唯一の目的なのであります。
整体を保つことを妨げるような心に対しては処理の必要があります。
人間の心を指導しないで権力を以って強制したり威嚇したり、又命令によって動かそうとしたことが如何に弱いとかということが言える。煽てたり脅迫したりしてやってみても一時のことである。ズーッといつまでも続いてゆくものである為には人間の裡(うら)にある自然のはたらきに触れなくてはならない。
「嘘のエチケット」
礼儀の為であるとか、一応のお世辞だとか、エチケットであるとか、或いは愛情の表現であるとか、いろいろなことを言いますが、本当はそうじゃない。
突然大きな音がすると、無意識に体が硬くなってしまうように、そういう場合にいきなり来たものに対しては一応無意識に拒絶の抵抗を示してからでないと、良いか悪いか考えられないのです。
押通せないものを押通そうとあがくから不安になり、そこで自分の心の安定の為につい無理な気張り方をするのですが、相手はその気張りを感じて警戒する。
本当でないことの方が信ぜられ、本当のことの方は反発されることが多い。
嘘とか本当とかを見分けること以上に、自分に都合がよいか悪いかという方に敏感に働いてしまう。
何故「嫌よ」というのかと言えば「良いヮ」とか「もっと」とか、本当のことを言うのが恥ずかしいからでしょう。何故恥ずかしいかとうと気取っているからです。意識して気取っているのではないが、本能的に反射的に気取ってしまうのです。
「人間を動かしているものの正体」
感情というものは得体のしれない非合理なものです。政党でも組合でも団体でも、大きくなるほど内輪もめで困り抜いている。それは何かというと、ごく小さな「これっぽち」の感情の問題が基になってスムーズに行かない。最終に於いて人間というものはそういう不合理な、どこに根があるか判らないそういうものに動かされている。
嫌よと言われて引き下がる亭主に秘かに不満をもつ女房は以外に多い。
「自分の病気は重く見られたい」
病気といえども自分のハンドバッグやネックレスと同じに自分の持ち物であります。
大切な病気を「軽いョ」なんて貶されて腹を立てない病人があるつもりでいるならば大きな手ぬかりです。
歯が痛いのでも他人が「痛そうですな」と言えば「いや大したことありません」というが、その奥さん(旦那さん)が痛そうな顔を無視して「これやって下さいな」とでも言おうなら「こんな痛いんだぞ」とこれ又反射的に痛そうな顔をいよいよしかめる。
「言葉では何も言えない」
自分の本当の気持ちをスラスラ話せるものではありません。そのうちに自分でもくり返している言葉に酔って、その言葉のような心のつもりになってしまう。
言っている言葉や言いまわしに考えを取られているうちは、相手の要求というのは読めないのです。
要求というものは後から後から変化して出てくるもので刻々と変るものです。だから本当のことも変わるのです。嘘も変わるのです。
「表現のからくり」
或る人は子供が欲しがるものを、欲しがる度に何でも買ってやるといって自慢していましたが、それは子供を可愛がることとは違う。
欲しがるのは何故だろうかと考えてやることが愛情というものなのです。
(子供は)買ってもらいたい本当の心はいつになっても理解されません。
注意の要求、愛情の要求、自分に対する関心の要求、そうした子供のかくれた要求が判れば「買ってくれ」と言われなくたって、スーッとそれは応じられるはずです。
子供は本当はもっと親の関心が欲しい、訴えたいことや示したい要求がある。子供はそれを感じているが自分ではそれが判らない。
親の無関心なる心を叩いて注意を促す為に、子供はそんなに欲しくもない玩具を要求するのである。
人間同士の言葉というものは便利であるが、その便利な言葉の為に本当の要求というものを見るということをツイ忘れてしまうのです。
噂は根も葉もないことも又ある。そういう場合には噂をたてたり、云ったりする人のもう一つ下にある心の中に這入って行かなくてはならない。
「絶え間なき自己主張」
人間は全く無意識にお化粧をしてしまうかと思うと、むき出しの自分を見せようとする。又ワザと自分の弱い処を見せようとしたり、逆に強い処だけを見せようとしたりする。又ある時は哀れな自分を見せようとするかと思うと、逞しい自分を見せようとする。
「ゲーテはこう言った。だからこれはそうなんだ」と。「ゲーテが言ったことより君自身はどうか」と聞くと、ゲーテがそう言ったのだからそうだとしか言わない。自分で考えないで人のものを借りる。
「たった一つの声」
人間はいろいろな言葉を使うけれども、本当の言葉は一つしか持っていない。
自分で装った自分の言葉に酔って涙を出したり、腹を立てたりしているが、その酔いが醒めてハッとして元にかえるようなことが良くありますネ。その最中では自分で酔っていることが判らない。その酔って出している言葉を、いくら丁重に聞いたとて本当の心をつかみ出す訳にはいかない。
まず訴えたい、示したい、主張したい要求のもとにあるものをつかまえ出さねばならない。するとそれにくっついているいろいろの心が一緒にくっついて出て来る。心を掃除して滞っているものをスッパリ吐き出させることが指導の着手の技術であって、指導を押し付けたり、指導する為の言葉を已でに満員になっている心の中につめ込んだりすることは技術というものではありません。
「指導の技術」
しかし技術で指導する積もりになることも間違いなのであります。
どうしたら指導する人になれるかといいますと、声の大きいことも意志の強いことも、教養のあることも必要でありますが、個人を指導する場合はそれらより先ず相手が安心して話せる人になるということであります。
相手と対立していたら相手は喋らないのです。
最後の言葉を知らないと、聞いてもほじくっても何処でストップしたら良いかそれが判らない。しかしそれ(最後の言葉)に触れると相手の体中が瞬間硬くなる。それを無関心無対立、空吹く風のように聞き流す。相手は話すにつれ弛んでくる。弛んでくるように聞き又話す。
たった一つの言葉を聞く耳さえ持っていれば、相手は訴えるだけ訴えそして心の中が空っぽになるとこちらの指導もすらすらと受け入れ、サッサと歩き出すようになる。こちらは何もしないで、一寸気を入れ、抜く。やることはそれだけなのです。
そこで「あなたの言いたいことはこうだ。訴えたい本当のことはこうだ」とつかみ出したものに角度を与える。すると方向が変わり、中味が変わると体が変わってくる。体が変わって来なければ本当に触れていないのです。
だから指導というのは言うことより先ず聞くことに始まるものなのです。
聞くより前に相手が何でも自然に訴えてしまうような人になることが大切なのであります。