感覚的身体
北村啓氏(理学療法士)
機械論的に身体を見ることの問題点はいろいろありますが,1つは原因論に陥りやすい。体調不良があればそこには原因があり,それを取り除けば治るはずだと考える。現実には機械のようにはいかないわけですが,そういう発想が定着しています。
あるいは,「正常値」という概念も機械論的な身体観の特徴です。平均と正常って,ちょっと考えればまったく違うことだとわかると思うんですが,あたかも同じことのように扱われています。例えば学校のテストで9教科すべて平均点ぴったりという人がいたら,誰が見たって異常なんですが(笑),身体に関しては,「平均=正常」という機械論的発想を受け入れてしまっています。
心拍数も脈拍も一定で変化しないというのは,生きている人間のあり方としてはかなり異常です。例えばICUであれば,人間の身体は,あたかも機械のように高い反復性・再現性を保っていてくれるでしょう。けれど,慢性期,あるいはリハの領域になると,生活し,変化し続ける人間が対象になる。安静という条件下で繰り返していたことが,日常生活の中でも同じように繰り返されると考えるのは無理があります。
僕らのように臨床にいる人間は,客観的身体観よりも感覚的身体観にしたがったほうがうまくいく,ということを経験的に感じています。歩行訓練の機械的反復ではなく,本人の「あ,歩けそう」という実感が,リハビリを成功させることがあるわけです。
野生動物の多くが身体接触を嫌がることからわかるように,実は,身体と身体が触れあうということは基本的に暴力なんですね。僕は,そうした暴力的接触を何とか超越しようとしてきたのが,感覚的身体観に基づいた日本文化だったのではないか,と考えています。
他者をどうもてなし,どう迎え入れるかを「型」として示した茶の湯などは,その1つの完成形といってよいでしょう。そしてこれは,客観的身体として身体を「自分」から切り離してきた現代人が,再び自分の身体をいかに迎え入れるか,という課題に直結していると思います。
もう一度「身体」から始めよう
介護に,リハに,医療に生かす「古武術の知」
しかし,福井さんの関心は,その先に広がる世界にあるんですよね。とにかく,身体の使い方を変えていくなかで感じる「何か」に焦点をあてて講義してくれ,介護技術は副産物でいいよ,というご依頼でした。これが,僕にとってはすごくうれしかったです。
福井 基本的な身体の使い方ができていない人は,いい仕事ができません。それは,どんな仕事でも同じです。それに,話を聞いてすぐわかって,明日から役に立つなんてものは,だいたいろくなもんじゃありませんよ(笑)。
感覚的な身体運用の世界を学ぶ1つの意義は,「違う自分と出会う」ということです。そのためには実用性や有用性はいったん忘れたほうがいいんですよね。夏炉冬扇(かろとうせん)という言葉がありますが,役立たずのものを追求したほうが,違う自分に出会えるんです。
もちろん,岡田さんの介護技術はいいものだと思うし,現場で役立ててもらえばいいんだけど,その「役に立つ」ということにあまりこだわっていると,ある壁が越えられないということですね。社会的有用性を軸に見ている限り,どうしても身体は「道具」になってしまいます。
「身体接触は基本的に暴力である。したがって技が必要となる」というお話でした。「持ち上げられている」という感触をできるだけ少なくすれば,患者さんも暴れないんじゃないかと考え,それを意識しながら抱えてみたところ,ほとんど抵抗が生じなかった。
ここでおもしろかったのは,参加者の1人が,「この方がなんで暴力をふるっていたのかはじめてわかった気がした」とおっしゃったことでした。「自分たちは正しい技術を使っているから間違いはない。暴力をふるうこの方が悪い」と思っていたが,違うんじゃないか。暴力を振るわせてしまうような「何か」を,この方に感じさせてしまっていたのではないかと思った,というんですね。
僕の技術を通して新たな発想の転換が生じた。これがうれしかったんです。だから,入り口としては具体的,技術的なものであっても,そういった感覚の変化につながっていくといいのかな,と思っています。