人間の探求3-1
口+卒啄(そったく)の技術
口+卒啄(そったく)とは鳥の卵がかえる時、親鳥がひな鳥の卵内の動きに応じて殻を破ることである。人間を活かし強くするには口+卒啄(そったく)の機をつかまねばならぬことは確かである。
技術としての中断
「訴えていることと、訴えたいことは違う」
何故家族にも話さないようなことを指導する人に、赤の他人にペラペラ喋るのかというと、その裏には訴えたい心の抑圧と圧縮されたエネルギーがある。
彼女は訴えることが下手糞なんです。自分の訴えを何と言って表現したらいいのか判らないのです。判らないから何でもかんでも喋りまくっている。材料は手当たり次第。心に不平がある限り、どんなことでも不平の材料になるのだから「私が右を見たのに貴方は左を見たでしょう。」何ていうようなことまで不平の材料になる。
(中略)
感ずる不平は沢山あるのに言うとなると一つしか口に出せない為に又抑圧が生ずるが、次の不平、次の訴えの材料を見付け出し造り出す。しかし、そういう新しく造り出した不平をいくら言っていても、その新しく起こった不平の発散だけで、もとの心にある不平または訴えたいものは少しも出ていないのです。それ故、いつまでも不平が続くのです。これは心の一番底にある訴えたいものを言葉にするということが非常に下手な為です。
訴えようということの多くは自分で云えないことだからです。察してはもらいたいが、自分では云えない。
「訴えるほど訴えたきことは増す」
亭主が一日働いて家に帰るのが遅くなっても、これは交際のためだと頭の中では知っている。知ってはいるが腹の中ではいつも遅いということが不平の種になっている。だから云っても仕方がない。本当はね、感じている不平は別のことなのですがね。けれども口で言えばいつも遅いとしか言えない。そうすると相手は「会社の用だ、仕様がない」と返事するに決まっている。決まっていると思うから、なお訴えられない。ここに抑圧が始まり爆発の原因が出来る。
この間、娘を4人持っている人が訪ねて来ました。神経衰弱なんです。
(中略)
家内は教養がない、家内には計画性がない、家内は何とかである等々、奥さんの不平ばかり云う。そんな理屈の通った不平は本当の不平ではない。不平というものは理屈にならないから不平になるんだ。理屈が通ったことなら貴方は言えるはずだ。口で言えないから不平になる。
(中略)
女に男の教養を求めるのは間違いなんだ。どこの女でも同じことだ。そんなこと判り切っている筈だ。そんなことを繰り返して云っても不平の訴えにはならない。一つだけ言いなさい。君が口にすることを最もきまり悪がっている、一番言いたくないことを、一つ言って見給え。と申したら彼はしばらくして云った。「女の食べたいものと男の食べたいものは違う」と。一対五ですからね。娘4人に奥さん。
(中略)
不平だけれど一対五だからしょうがない。それを云い出せば「貴方の稼ぎが悪いんだ」ということになってしまうから言えない。
「自分でも気づかぬ見栄と体裁」
訴えたくない要求。
訴えられない不平。
そういうような「たくない」「られない」心が心の一番下にあるのです。
「たくない」に見栄
「られない」に体裁
他人にまで迷惑をかけても肝心の訴えたい心の奥にある不平は訴えられないままになり、次にはその抹消的発散もくだらないことだとして抑えられてしまうと、今度は体の病気になったりする。自分に八つ当たりするんですね。
「技術としての訴えのきき方」
相手の訴えを中断させるということは中断ではないんです。相手の訴えたいことの奥にある抑圧されている訴えの大もとを「これだ」と引っ張り出し、相手の言えない分の代行をしてやる。そして、それはこうやるというその終点における問題をピッタリ示し、方法を指示することである。
中断すれば訴えたい心はいよいよ亢(たか)まってくる。そこで訴えたい心をどの程度に亢めるかという問題である。抑えるにしても、亢めるにしても、どちらも指導する者には必要である。
訴えたい心を残して中断する場合には、相手の息を吸うところで気を抜く。一息にドーッと喋らしてフッとなったときはどの話の途中でもいいのですよ。途中であれば途中であるほど有効なのです。
「アッそれはそうとネ」とか何か言われると、もうそれでストップしてしまう。
もう一つの方法は一寸ストップ。「今のところにこういう矛盾がある」「何でしたっけ、今言ったのをもう一回」とか、
「傷口にさわる技術」
ウッカリ本当のことに触れると、相手は訴えの途中で躊躇する。
途中で躊躇して段々変わって行く。変わり出したなと思ったら一旦打ち切る。「一寸待った。それはさっきと違う。さっきは何て云ったんでしたっけ」と気を挫く。そうすると又ムラムラと訴えたい心が湧き出て、今度は別のことで誤魔化そうとする。しかし、関係ない他のことを言っているうち、その調子に乗るとまた本題に戻って訴え出す。
われわれは何処までも訴えられる立場を保たなくてはならない。ところが、時々逆に回って、指導している人が訴える立場になることがある。私はこんなに骨折っているんだ、こんなに苦労しているんだ。
「訴えることと全く異質の本当の訴え」
中断ということは、訴えたい最終の抑圧されている心とか、理屈にならない訴えとか、言葉に乗らない、又乗せ得ない訴えを引っ張り出す為の方法なのです。
人間の抑圧している心の中心のものは訴えている事柄と存外異質のものが多い。それを吐き出させることが目的であるが、そこに至る行程として訴えを中断する。何回も同じことを繰り返させて不意に中断するという方法で、相手の気を抜いてしまうというようなことを時々行って、その訴えたい心を亢めていく。
「果てしなき自己主張」
なぜ、人間には訴えたい心があるのに、最終にある不満を本当に言葉に出せないのだろうか。その主な理由は人間の裡(うら)にあるものの動きの為なのであります。これあるが為に、人間の動作は要すればいつも要求の表現であり、「われここに在り」ということを主張する為の動きに他ならない。その人の生きていることを実証するはたらきであり、裡の動きの最も率直な現れなのであります。それ故に、生きているなかでは一番強いはたらきでありまして、
「強い自分と弱い自分」
そういう中に二つの系統がある。
それはよりよき自分、より強き自分を示そうとする要求、つまり威張りたい心と、より弱き自分を示そうとする要求、多くの人の関心を唆って同情を集めようとする心の二つであります。その二つがグルグル回り出すと、示したい要求と、訴えたい要求が出てくる。
どうして敢えて強さを示すのかと言いますと、それを示さないと不安だからなのです。つまり強くないから。それ故強さを示し、弱さを訴えるようなことをする。
今の心理学に於いては、訴えたい要求を追求して最終に劣等感というものを掴み出している。しかしこれは片手落ちでありまして、劣等感の逆の働きがあって訴えられない。
数でそういう劣等感を補おうとすることがある。だから与太者が群れをなしているというのはそういう為である。
人間が集団動物であるから劣等感というものは数で補うことができるらしい。
「その現れは体の波による」
今働いているコンプレックスを眺めて心の奥まで見ている心算でいるようでは本当のことは捕まえ出せません。アレはコンプレックスだ、アレは固定観念の為だといくら見ていてもしょうがない。訴えたい心がなぜ抑えられているか、又なぜ抑えられているのが出てしまう場合と、出せない場合と二通りあるかということは心の働きであっても、そのもととなるものは矢張り体の力に依るのであるから、訴えられない時には体の力が欠乏し、抑えておられる時には余っている。
体にはそういう生理的な波がある。このエネルギーの集散の波と、自我意識とか劣等感とかの働きを結びつけて観察するのでなければ、抑圧している心の実体に触れる訳にはゆかない。人間は口で訴えない時は体で訴える。
体の緊張と弛緩がスムーズに行われているはずなのに、そのバランスから取り残されいる緊張と弛緩、しかも不随意に生じている緊張と弛緩の移り変わりは、その体の裡の要求の働きを示すものであります。