SOKA薬王のBlog

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法華経の智慧1-3 「民衆に呼びかける経典」

1-3 民衆に呼びかける経典


仏法は深い。゛言は意を尽くさず゛と言うけれども、それでも語っていかねばならない。


法華経の「善男子・善女人」は、いはゆる「出家に対する在家」という二分法的な考え方に立った在家ではなく、出家・在家という相対を超えたものではないだろうか。むしろ仏と同じ仏道、つまり人間自立の道、生命勝利の道を歩むことを「決意した人」、その意味で「善き人」という意味あいが強いのではないかと感じられる。「善」は゛心根のよさ゛をあらわしているのではないだろうか。


法華経で、釈尊が法を説いている直接の相手は、例えば前半(迹門)の中心的部分である方便品では声聞の舎利弗であり、後半(本門)の中心的部分である寿量品では弥勒菩薩です。しかし、重要なのは、そのような声聞や菩薩に対して説かれた法華経の教えが、全体として、だれのために説かれたのかということです。


法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的あると説かれている。


仏法が滅するとされる末法という時代に、一切衆生幸福という法華経の理想を、どう実現するか――その道を開いたのは、日蓮大聖人であられる。


師の教えを「知っている」から偉いのではない。「何のために」知っているかです。


「師の教えは素晴らしい」とは、だれでも言える。「だから、何としても人々に伝えていくのだ」――これが日興上人であられる。「だから、それを知っている自分はすごいのだ」――これが五老僧ではなかっただろうか。


牧口初代会長は「信者ではなく行者であれ」と叫ばれたが、その通りの行動をしています。一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統教団の在り方では、二一世紀を目前にした現代社会にはとうてい適応できないことは確かでしょう。


「民衆中心」とは「人間中心」と同じです。それは「宗派性」も「僧俗の区別」も超えて輝くものです。赤裸々な一個の人間として、他者に対し、社会に対し、何ができるか――その意識や力を絶えず湧きあがらせていく源泉が、「民衆の宗教」であり、「二一世紀の宗教」であるはずだ。それが法華経の魂です。