SOKA薬王のBlog

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法華経の智慧1-4「如是我聞 師弟不二の鼓動」

1-4 序品1「如是我聞 師弟不二の鼓動」


法華経の場合、「開く」ということが重要な意味を持ち、経典全体にわたって強調されている。


戸田先生も、序品で集まった衆生について、こう言われていた。
「その何十万と集まったのは釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩なのです。」


普遍的法華経――法華経の成立問題


法華経は、常に「滅後のため」の教えなのです。


戸田先生は、注目すべき法華経観を提示している。
「同じ法華経にも、仏と、時と、衆生の機根とによって、その表現が違うのである。その時代の衆生の仏縁の浅深厚薄によって、種々の差別があるのである。」


時代が釈尊の思想を希求し、釈尊の思想が、時代を感じて出現してきた。「感応道交」です。普遍的な思想とは、そういうものです。真実の思想の生命力と言ってもいい。


如是我聞の意義


大聖人は「文・義・意」という原理を示されている。


いかに法華経の「文」と「義」を論じても、その「心(意)」に触れなければ意味はない。大聖人は、結論的に「法体とは南無妙法蓮華経なり」と仰せである。


法華経の「如是我聞」とは、全生命を傾けて仏の生命の響きを受け止め、仏の生命に触れていくことです。「如是」は、「その通りだ」と聞き、生命に刻んでいく信心、領解を表している。また、それが全人格的な営みだからこそ「我聞」とあるのです。全人格としての「我」が聞くのであって、単に、「耳」が聞くのではない。


「廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なりされば皆成仏道と云うなり」P794 と仰せです。


自分の外において読むのではない。すべて「我が身の上の法門」であり、「我が生命の法」であると聞くべきです。


一切衆生を救おうとする仏の一念と、その教えを体得し弘めようとする弟子の一念が、響きあう「師弟不二」のドラマ――それが「如是我聞」の一句に結晶しているのです。


「仏の滅後の衆生救済をどうするか。だれが法華経を受持し、弘めるのか」。序品の舞台からすでに、この根本のテーマが奏でられている。


日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」P329


師匠がいる間は、まだ、いいかもしれない。師弟というのは、それが本物であるか否か、師がいなくなったときに試されるのです。仏法は厳しい。


仏の入滅を転機として、゛救われる弟子゛から゛救う弟子゛へと転換したのです。これこそ法華経の精神です。だから「如是我聞」の心とは、弟子が決然と立ち上がることです。「さあ、師と同じ心で、民衆を救っていくぞ」と、


聞法の意義――声仏事を為す


「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」P415
「此の経は専ら聞を以て本と為す」P416 と仰せです。だから仏の「声」が重要な意味を持っている。「妙法蓮華経」の「経」の意義について、「声仏事を為す之を名けて経と為す」P708と述べられるゆえんです。