「功徳の本義」について<上>
SGI研修会での斉藤SGI教学部長の講義から
「功徳の本義」について<上>
無明を打ち破るのは「御本尊への信」
人生勝利の希望の大道は創価学会に!
不幸の流転を絶対的幸福へと転換
世界各国からSGI(創価学会インタナショナル)メンバーの代表が集い、斉藤SGI教学部長を講師として教学研修会が実施された(11月13日)。同研修会では七つの御文を拝しつつ、日蓮大聖人の仏法における「功徳の本義」について学んだ。ここでは、その要旨を2回に分けて紹介する。
資本主義が暴走し、世界同時不況に陥った今、貧困・疫病・戦争などの災厄は、誰にとっても他人事とは言えません。このような時こそ、濁世を救う日蓮仏法における「変毒為薬の功徳観」を学び、我が胸中に「希望の灯り」を明々と灯して、人生の勝利の確かな道を歩んでいきたいと思います。
(1)悪を滅し善を生ずる
御義口伝に「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり」(御書762ページ)と仰せです。 法華経を受持し弘める「法師」が得る功徳を説いた御文ですが、この仰せに仏法の功徳の本義が示されています。 現代において、この御文に注目し、「悪と戦う」ことに仏法の功徳の真髄があることを明らかにしたのは池田SGI会長です。
「悪を滅する」とは、不幸の根源である「無明」を打破していくことです。 無明とは、いわば「内側の悪」であり、自分の生命が本来、妙法の当体であることへの無知、いわば「根源的な無知」であると言えます。 この根深い無知が貪・瞋・癡などの煩悩の温床となり、不幸を招く暗い執拗な衝動となって現れます。
また、妙法を教えられても「疑い」や「不信」を起こしていくのは、この無明の力によります。反対に、この無明を打ち破れば、我が生命にもともと具わる「法性」が働きだし、妙法の偉大な功徳が自ずと現れるのです。これが「善を生ずる」ということです。悪世には、無明を起こす「悪縁」(いわば外側の悪)が充満していますから、内外の悪と戦っていくことが、幸福を勝ち取っていくためには避けられません。 無知は智慧によってしか打ち破ることはできません。根源的な無知である無明を打ち破るには、仏の智慧による以外にありません。
大聖人の仏法においては、「御本尊への信」によって、この無明を打ち破ることができます。御本尊には究極の仏の智慧があらわされているからです。「以信代慧」こそが「御本尊の功徳」の根源です。 「悪を滅し善を生ずる」とは、法華経を実践する「法師」の身に起こる真実の功徳です。法華経の内容から判ずると「法師」には、「法を師とする人」と「法を弘める師(リーダー)」という二つの面があります。つまり、法華経を信ずる人であると同時に法華経を弘める人でもある自行化他の実践者です。 現代においては、法華経を自行化他にわたって実践する学会員(SGIメンバー)以外に、この真実の功徳を身をもって受けていける人はいません。
(2)変毒為薬
次に、「悪を滅し善を生ずる」とは、妙法による「変毒為薬」の功徳にほかなりません。 日蓮大聖人は「毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、……即身成仏と申すは此れ是なり」(御書984ページ)と仰せです。
インドの大乗の論師である竜樹は、「妙法蓮華経」の「妙」について、「偉大な医師が、毒をもって薬と為すようなものである」と譬喩をもって説明しました。 これは、毒から薬というように正反対のものに転換できることこそ「妙」の意義であるということです。
すなわち「毒」とは、「煩悩・業・苦の三道」を譬えます。「煩悩」とは、貪り、瞋り、癡か、慢心などの心の次元の迷い。「業」とは、煩悩にもとづく身・口・意の行いと、行ったことによって自分の生命に残る悪い影響力。「苦」とは、煩悩と業の結果としてもたらされる苦しみの報いです。 この煩悩・業・苦を繰り返して、不幸から不幸へ、悪から悪へと流転する生命が「毒」で譬えられます。
これに対して、「薬」とは、仏の生命に具わる法身・般若・解脱の三つの徳です。「法身」とは、永遠の真理と一体の永遠の生命です。「般若」とは、仏の悟りの智慧のことで、いわば全体観の上から自分を捉えて正しく生きていく智慧です。「解脱」とは、エゴや執着や束縛から解放された自在にして広々とした仏の境涯です。 「変毒為薬」とは、煩悩・業・苦の三道に流転する凡夫の生命がそのまま、妙法の力で法身・般若・解脱の三徳の働きを具えた絶対的な幸福境涯へと転ずることです。
妙法の功力を我が身に証明
日蓮大聖人は、妙法を弘めるが故に大聖人の身に襲いかかってくる三障四魔、とくに天子魔(第六天の魔王)がつぶさに顕現した三類の強敵による迫害を全て乗り越えることによって、変毒為薬を身をもって実証し、証明しきられました。そして、その事の一念三千の御生命を御本尊としてあらわされました。
「御本尊を信ずる」とは、三道を転じて三徳となす妙法の力を信ずることであり、いかなる煩悩・業・苦の流転の渦中にあっても、心においては妙法の力を信ずる強い信を起こすことです。大聖人は、「変毒為薬・三道即三徳の法理を自分自身の事として信じる功徳によって、凡夫としての分段の生死も、菩薩等としての変易の生死も越えて成仏することができる。ましてや三界の現実の苦しみは悠々と越えていける」(同984ページ、趣旨)と言われています。 分段・変易の生死は難しいですが、要するに次のような事です。
すなわち、変毒為薬の功徳とは、仏の智慧をもって、凡夫の現実世界の生死の苦しみも、菩薩が衆生救済のためにあう種々の苦しみ等も、悠々と越えていけること、すなわち「人間革命」の境涯の確立を意味するのです。 この意味での真の「変毒為薬の功徳」は、一個の人間として現実の困難を乗り越えつつ、使命深き菩薩として広宣流布の困難に挑戦する学会員の生き方においてのみ現れるのです。