「功徳の本義」について<下>
SGI研修会での斉藤SGI教学部長の講義から
「功徳の本義」について<下>
仏法は幸福勝利の人生の軌道!
不退の信心による生命変革の福徳
「大我」に基づく大歓喜の生き方
人々を触発する人間性の輝きを
SGI(創価学会インタナショナル)研修会(11月)での斉藤SGI教学部長の講義の要旨(「『功徳の本義』について」(下))を掲載する((上)は12月6日付6面)。
(3)内薫外護(その1)
善神の守護
これまで「悪を滅し善を生ずる」という功徳の本義、また「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」という妙法の力用について拝察しました。どちらも「生命の劇的な変革」による「即身成仏」のことに他ならないと拝することができます(御書762ページと984ページ)。端的に言えば、仏法における功徳とは、「人間革命」に他ならないのです。
この生命変革の功徳の内実を示す重要な法理が「内薫外護」です。この法理によって「善を生ずる」「薬と為す」と表現される面、つまり「生命変革に伴う福徳」とはいかなるものかが示されます。
池田SGI会長の崇峻天皇御書(三種財宝御書)の講義(「大白蓮華」10〜12月号掲載)に基づき、その点を述べます。 同抄では「仏法の中に内薫外護と申す大なる大事ありて宗論にて候」(同1170ページ)と言われ、法華経不軽品の「我深く汝等を敬う」、涅槃経の「一切衆生悉く仏性有り」をはじめとする経・釈が引用されています。 この御書は、四条金吾が人生最大の危機に直面していたときに、日蓮大聖人からいただいたお手紙です。
当時、金吾は、悪僧らによるデマと金吾を妬む同僚たちの讒言により、法華経の信心を捨てなければ所領を取り上げ追放すると主君から迫られ、窮地に陥っておりました。 金吾は大聖人に不退転を誓います。すると2カ月もたたないうちに疫病がはやり、悪僧や同僚の讒言者たちが次々と倒れます。さらに主君も疫病に侵され、医師でもある金吾に治療を依頼せざるを得なくなったのです。ここに主君の信頼回復のチャンスが訪れました。
大聖人は、この状況の変化は「内薫外護」の原理に基づいて善神の守護が現れたことによるものであると教えられています。 「内薫」とは、生命の内側から仏性が薫り出てくることです。また、香を焚くと衣服などに自然に薫りが移っていくように、仏性の薫りが次第に自分の生命に定着していくことでもあります。 「外護」とは、内薫に引かれて、他の生命の仏性が働きはじめるなどして、外から守る働きが現れることです。 大聖人に不退転を誓った四条金吾の師弟不二の信心が、この内薫外護の働きを引き起こしたのでした。
宇宙大の生命交流
さて、唱題こそは、この「内薫外護」という真の功徳をもたらす修行です。そのことは、次の法華初心成仏抄の御文に明らかです。 「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」(同557ページ)
この御文に明らかなように、自分の仏性だけでなく、あらゆる生命の仏性を呼び現す唱題行とは、言ってみれば「宇宙的な生命交流」のドラマに他ならない。 唱題による仏性の薫発・顕現によって、自分と自分を超える宇宙的な力である妙法との大交流が起こるのです。そして妙法の偉大な力が自分の生命において働きだすのです。それが仏道修行によってもたらされる「福徳」の内実であると拝することができます。
その福徳について、この法華初心成仏抄の御文においては、(1)善神の守護(2)仏・菩薩の歓喜の二つが示されています。 (1)の「善神の守護」は、あくまでも妙法の力用によるのであり、自他の仏性を呼び現す唱題の実践によってのみ起こる守護の働きなのです。
(4)内薫外護(その2)
真の主体性の確立
では、(2)の「仏・菩薩の歓喜」とは、いかなる福徳を意味するのでしょうか。 これについては、「大我の確立による大歓喜」であると言えると思います。 「大我」とは、何があっても成仏の因果を我が生命に行ずることができる「真実の主体性」のことです。 私たちの生命は、往々にして不幸の因果に支配され、無常の因果に流されていきます。しかし、現実生活においていかなる困難があっても、唱題を根本にして乗り越えていく人の生命には、常に妙法に基づく成仏の因果が行われます。
成仏の因果が生命活動の中心になっていくことが唱題行の根本的な功徳なのです。 御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える妙法受持の功徳について、観心本尊抄には「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(御書246ページ)とあります。 まさに、成仏の因果の功徳が生命の骨髄として確立されたとき、私たちの生命は「妙覚の釈尊」と同じになるのです。
観心本尊抄によれば、妙法受持は菩薩行の真髄です。ゆえに唱題行には菩薩としての最高の歓喜が伴うのです。 また、妙法受持の功徳によって、「一身一念法界に遍し」(同247ページ)という広大な仏の生命を成就できるとも仰せです。それが仏の大歓喜です。 妙法受持の唱題行による生命錬磨の功徳にこそ、人間としての最も深い喜びがあるのです。
(5)「心の財」の実証
さて、崇峻天皇御書では四条金吾に対して、「心の財」を第一とする生き方を現実生活で貫き、いかなる人からも、その生き方が称えられるようになっていくべきことを教えられています。「中務三郎左衛門尉(=四条金吾)は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ね(根)もよ(吉)かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書1173ページ)
「心の財」とは、信心による仏性の内薫と、それによって生命に具わる福徳です。しかし、内薫といい、福徳といっても、見えないままでは、人間としての最高の宝であることは証明されません。仏性が人間性の輝きとして現れてこそ、その素晴らしさが、いかなる人々の心をも打っていくのです。
この「実証」を現す鍵が、万人を礼拝した不軽菩薩の実践です。ゆえに大聖人は四条金吾への御指導の結論として「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174ページ)と仰せです。 不軽菩薩が他の人の仏性を礼拝するとき、他の人の仏性が不軽菩薩の仏性を礼拝しているのです。ここに人間性の輝きが、他の人々の人間性を触発するという仏法の「実証」の根本原理があります。 また、「実証」として現していく「人の振舞」(全人格的行動)があってこそ、我が生命の福徳も、確たるものとして定まっていくのです。