SOKA薬王のBlog

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病人と看病人 4


認め方の角度



−お母さんの場合−


お母さんは自分が旨いと誰でも食べるものとって「これを食べなさい」とか、食べたくもない時に「これを食べなくては体に悪いよ」と強制する。その強制や押し付けに反抗して、食べたくないとかになり、何回か繰り返すと、この子は「食べず嫌いだ」と、お母さんの方で決めてしまうのではなかろうか。子供は、食べ物にではなく、押し付けられるそのことに反があるのだ。


もし食べなかったら、その場面だけの問題、「今日の料理は気に入らなかったのね」とか「塩辛かったのかな」と、そんな程度でいい。すると子供は、そうかなぁとい、別の日に同じものが出ても、別の味を期待して食べようとする。


−看病人の場合−



病人も同じで、「食欲がない」などと病人が言うと、何とか食べさせようとするが、私は「普段から栄養過剰なんだ、この辺で一休みさせようじゃないか」とか「食欲がないのは、胃袋が休みたがっているんですね」と言う。


「ものの見方を変える」ということは大切で、看病人のものの見方の角度というものが非常に重大なことになる。その認め方の角度によって、病人の体の中にある力を振り起こすこともあれば、萎縮させることもある。


病気を融通手形の代用にしている人もいる。だから一度でもその使い方を覚えた人は、とても看病しにくい。けれども病人は、それを識してやるわけではない。カメレオンの保護色でも、周りの色を見て自分の色を変えているわけではない。自然に、体の中の働きによって変わる。それと同じで、識してそうなるのではない。


識してやることの限界


−漠としたものの力−



ともかく漠としたもの、例えば神様でも様でも漠としている間は尊い。本当はそういうものに価値を与えるのが人間の力なのだが、正体不明の漠としているものだと、そういう効用が無限に広がる。


その獏としたものを明確にしてしまうと、そういう力を失って、それだけになってしまう。識の上では、明確にしたことは頭に入るが、漠としたことは入らない。潜在識の中では、体に及ぼすようなことは、明確にするとなくなってしまう。


痛くないという言葉は「今は痛いんだ」と言うことの肯定になる。だから識で言ったことより、潜在識内に肯定した方が、直接体に働きかける力がある。痛くないと言う程痛くなり、しっかりしろと言う程ガックリする。「病気は軽い」と言うと、動けなくなるというように、逆の動きをする。それは明確にしたからである。


明確にすれば力はなくなり、獏としている間は力がある。これは潜在識教育の一つの原則である。


病気を恐怖するか、体の自然を信じるか


病人に病気を治せといっても無理なことで「絶対に治す」などと闘病を起こすことは「負けることの決」と同じであり、病気と闘うことによって自分を主張するというだけのことであり、自分と喧嘩しているだけである。


医者が信用されるのは、病気の恐怖を患者よりよく知っているからで、自分より行き届いて配して貰えるから医者にかかるのだが、医者自身は恐ろしいことを知っているために、病気になると外にもろい。


みんな不安と用で自分を自縄自縄して、それで悩んで警戒して暮らしている。警戒しているということは、悪いことが来ることを空しているのである。だから病気は自分で作っていると言明できるのである。