人間の探求3-2
「体の訴えを観察する」
鳩尾(みぞおち)が固くなっていれば感情的な異常がある。
頭で考えている利害損得よりは感情のほうが直接体に現れる。
背骨がうんと固ければ、やりたいことを中断したんだろうと観る。
相手自身の気づかない要求でも体には明瞭に現れている。だから体を触ると推測することが出来る。例えば、胸が固くなったら、不安、後悔、それに関するコンプレックスがあると…。腰に力がなくなれば、裏切られた。ガッカリした、信念に動揺があると…。
心の中でも沢山ありますネ。意思か空想か感情か信念か、或いは食べたい要求か、動きたくない要求か、眠りたい要求か、暴れたい要求か、勝負したい要求か、皆それぞれの関心のある場処に緊張が起こり、それに関しての問題だということは体を触れば判る。
その人が、「しまった」なんて思っている時には首が固くなって肩の力が抜けていない。
首が弛んで肩の力が抜けているなら後悔、ガッカリ。
「鬱散誘導の技術」
多くの人は鬱散するというと、体操するとか茶碗を割るとか、何かそう考えるのでありますが、私の普段やっていることは、
感情は意志に持って行く。
意志のものは判断に持って行く。
判断の悶えたものは意志へ持って行く。
意志の悶えたものは信念に持って行く。
というように、相手の心の中でその動きを違う場処へ移し、これを二〜三回行き来させるとそれで鬱散してしまう。
本質的なものは体の部分の緊張異常の場処で判る。
感情上の劣等感、感情上の自我意識、意志、或いは判断する働き、行動する働きの劣等感、同じように見える劣等感現象でも体を触りさえすればそういう区分は容易に出来るのでありますから、
「劣等感の現れ方」
劣等感というものは非常に意外なところに現れております。その自我主張までが時々に劣等感の分散様式であることが少なくない。
自我意識の主張というものも強いものですが、劣等感のように陰性ではありません。しかしいろいろと数多くの現れ方をしているのですから、拾い出だすのに場処が判らないと困る。今の問題は何処か、背骨か、腹か、胸か、頭か、腰か、手足か、私にとってはそういう分け方なんです。感情とか意志とかいうように考えないのであります。
「訴える体現象」
意志というのは起れぱ必ず手足の運動になる。だから背骨の問題なんです。皆さんが何かやりかけて途中でもって無理に寝ようと思うと、背中が固くて弛まないでしょう。意志は背中に来るのです。
くやしいと思ったのを我慢していると、鳩尾が固くなって、息を吸うと息も短くなる。泣きじゃくりしながら子供は寝ますけれど、泣きじゃくりしたら仲々眠られないですね。そういったように感情がたかまると、鳩尾がいよいよ固くなる。そういう心の色々なはたらきを、私は体の場処に求めていって、その場処の力を他の場処へ移す。
鳩尾が固く背骨に力が籠っている或る人に「腹が立ったら皿を一枚割るんだ」と割らせてしまったら、それで納まった。これは感情と意志が一つの働きになっていたのです。
感情だけなら例えば頭に復しゅう計画などを立てさせる「相手を殺すか・どういう方法で殺すか。絞め殺す、跡が残るぞ。刺す、血が出るぞ、自分の手に血がつくぞ、汚ない。ピストル、音がするぞ」だんだんこう考えて来る。そのうちにそんなことしないで済んでしまう。感情興奮は頭の働きが主になれぱ消えてしまうものである。
「永久に悪口を言ってやる」と云った人がいた。「永久って何年か」「三十年」「短いじゃないか、永久にしちゃあ。君の生きているうちに言えないんだからそんな悪口の言いようは下手だ」また工夫する、また工夫する。工夫しているうちに可笑しくなってきて最初の感情はどこかへ行
ってしまう。そこまで上手に引っ張って行く。そうして、或る処でポッと放すと大抵抜けるのが普通であります。
「相手も意識しない要求」
こういうのは処理方法でありますが、その処理方法から入っていくとその動作のもとは何かということが、割によく判るのです。懐手したままで、彼の抑圧されている訴えたい心は何であろうかと見ていても判らないが、自分で中へ入っていくと直ぐ判る。なぜかというと、相手の関心が違うのです。
「くやしいか」と言うと「ああくやしいよ」と言うのは頭でくやしがっているのであるが、黙ってしまって力を内にこめた恰好をしたら、もう感情がくやしがっているのに決っている。トントンと叩いてその反応を見れば判る。だから要求をみるということは、慣れるとそう難しいものではないが、ただ相手自身が知らない要求があるのです。
相手も自分は腹が立っていると思う。しかし私なら「体力の力、その発散」とそう観るが、その人自身は「自分は腹が立っているんだ」と思っている。次の人は、あの人のことで腹を立てていると思う。しかし、そんなことに腹が立つ前の問題があるはずだ。
このことを無視して「これこれのことが不平だからとか」、「何がこうだから腹が立つんだ」、とかだんだん外に行くが、私の観るのはそういうことからだんだん裡へ還っていって、最終のエネルギーの問題に至るところまで追いつめて、その裡の動きを使って、処理にかかる。
だからいろいろの感情上の問題も、突止めてみれば全く異質のエネルギーの不均衡状態といったそれだけの問題にたってしまうような場合が少くない。
ただ体を観察しているわれわれだけにしか判らない。そうやって体を触って見つけた要求を当人にこれだと見せれば無意識はサッと納得する。意識で否定したとて体に現われる変化に変りはない。寧ろ意識で否定した時の方がハッキリする。技術として、それをこれだとして見せるようになりますと、実際に不平と何にも直接関連のない問題を受け入れさせることも出来る。「ああ君の不平はこれだよ」とか、「これがこうだったんだ」とか、それで済む。
「対立」
そこで僕が口を出した。「それは押しつけるということだ。熱いと相手が考えているのに、熱くないと主張することは相手の言葉を否定することになる。もう冷めているでしよう、と言葉を否定しないで納得させればよろしい」と。
「熱い、熱くない」というのは売り言葉に買い言葉で、喧嘩を売りつけている。その熱くないという言葉を無理に通そうとしたら暴力である。
又クタクタになった人に「確っかりしろよ、元気を出すんだぞ」といくら云っても、相手は元気が出て来ないで反ってガッカリするだけである。
「ここはチャンとしているな、まだ元気な個所もあるんだな。大丈夫だよ」と云えぱ、大丈夫では通じっこないけれど、クタクタだと思っているところに「ここに元気がある」と言われるとヒヨッとそこへ気が集まる。そうすると同調する。そこで元気を出せと言われると出て来る。「クタクタだ。何、確っかりしろ」というのとは違う。
「本当の技術」
とも角、相手の訴えを聞いて、こちらの言葉を出す時に、そういったような言葉のために、当人はそういう気ではないのに言葉の上で対立してしまうことがよくある。対立さえしなけれぱ「ああこれがもとだよ、これがこういう角度だったからね」とこう持ち出すと「ああそうか」と思う。
それがその如くなると感じて前の心がなくなることは、訴えたい心が無くなることである。だから技術としてそれを与えられる人は、抑圧された訴えたいという心を探す必要もなくなって来る。何でもいい、簡単に掴めるものをそれとして差し出し受げ取らせることが出来る。
しかし、始めのうちは訴えたい心を探してみつけ出したらこれを訴えたかったんだろうと見せる。これを技術として「もう冷めてくる、冷めて来たはずだよ」というように技術として相手の心を取り出すようにすると、取り出さないものまで一緒に出てしまうし、こちらの言葉も相手にサッと入ってしまう。これが技術というものである。