「人間の探求」
- 作者: 野口晴哉
- 出版社/メーカー: 全生
- 発売日: 1974/03/20
- メディア: 単行本
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数回に分けて一部転載していきます。
無意識の願望
「本当のことは言えない」
自分の本心を他に語ろうとするとなると仲々大変なことだ。語っているうちに他のところへ行しまう。そしてそれは本心でない。所謂「かえりみて他を言う」ということになる。嘘は上手に云えても本当のことは仲々巧く云えない。
自分の本心を語ることさえ骨なのに他人の本心を当人の口から言わせようとなると、これはまことにむずかしい。
ただ教えたというだけのことでは指導という訳にはゆかない。それ故指導ということを行なうには技術が要る。しかもその技術は相手を理解してのみ行なえる。相手を理解するということは相手の言葉だけにたよっては出来ないのである。相手を理解しなければただ自分が言いたいことを言っているだけに終ってしまうものである。それ故むずかしいのである。
相手を理解するということは相手が言葉に出せないでいる無意識の願望を読みとることであるが、人間が無意識に示す動作にはその内心の願望がいつも表現されているものである。自分で全く意識しない願望迄がヒヨッと顔を出す。それ故無意動作を丁寧に観察すれば人間の理解は深まるのである。
その人間の動作する前に動くもの、即ち内心の要求の動きを見つめておれば、その無意動作に表現されている無意識の願望をつかまえることが出来る。
美味しそうな湯気の立っている皿の上の御馳走に思わず眼をやる。その眼の動き方と速度をつかまえれば、、空腹なのか、貧しい生活をしていたのか、武士は食わねどなのか、
一パイのコーヒーを出されても、惜しんで出したか、厭や厭や出したか、心からもてなすつもりなのか位のことは誰にでも判る。この誰にでも判ることを丁寧にくり返して観てゆくと、他人に判らないようなことが段々判ってくる。
これが指導技術を修めようとする人の先ず心がけたい問題なのである。
「動きの中に潜むもの」
無意動作の観察は、無意動作そのものを先ず観なければならない。例えば、有意動作の最中にでも無意動作をその中に見て取らねばならない。しかしそれは瞬きをしたとか、クシャミをしたとか、そういう生理的な反射運動を見ていることではない。
心の中の要求の表現としての無意動作を見究めることが必要なのである。ヒヨッと浮んだ冷笑とか、大声で笑っているうちに動く不安の影とか、本当らしいことをいっている中に嘘を交える表情とか、恥かしいとかいって袖を噛むその動作の上に出る芝居気とか、ともかく無意動作そのものを見るのではなく、無意動作に表現される人間の中味の動きを掴まえ出すのでなくては指導する人の観点は確立しない
「願望の現われ方」
無意の願望とか表現以前の要求とか、形の無いものの動きとかが、人間の中から直接的にはみ出してしまう時と、何らかの媒介を通して間接的に出てくる時とがある。
子供が腹をたてて持っている玩具をバツと投げつけるようなのが直接現象で、叱られた後で思わず茶碗を落して割るというようなのが間接現象である。茶碗に八っ当たりしても仕方がないのであるが、こわすことによって抑圧されたエネルギーの欝散が行なわれるからである。意識して計画したのではない無意動作は内心の願望の現われである。
大言壮語を無暗にふり廻す人がいる。一つは自分自身の不安の反映であるが、一つには大言壮語を鵜呑みにする習性があるということである。
指導ということを行なう為には自分の武器を捨てて相手の武器を使うことが宜しい。相手を理解すれば相手が酔っているものが何であるか判る筈である。理屈の達者な人は他人の理屈もつい聞いてしまうものである。感情の強い人は感情にもろ脆い。健康を誇る人は病気に弱い。
さて指導の武器が判ったらそれによって何を処理するのかということが問題になる。動く前に動くもの見よというのは、そういう行為に現われる前の要求、要求の前の無意的願望・願望の生ずる前の圧縮エネルギー、圧縮エネルギーに至る前の余剰エネルギーを観るというように、次々と観るところを進めて行かねばならない。
要求を見たらそれで良いとはいえない。或る学考がその細君の行為について「お前の行為は欲求不満現象だ」と申したら「私には欲求不満なんてありませんよ」といわれてしまった。
或る治療家は「貴方はヒステリーだ」と本当のこと言ったばかりに「私はヒステリーではありませんよ」とヒステリックにどなられて一ぺんに信用を失った。
見たまでは良いが、見たところが浅かった。その処理の技術もなかった。こんなことは珍らしいことではない。観るということは人間の本性に至り、その本性がどこにどのように投映してそういう願望なり要求なりになるかを見定めねばならぬ。
身を殺して闘うのも、我身を大切にして養生一途に過すのも、結局は同じ要求の為に他ならない。ただその現われ方が異なるというだけである。しかもここで問題となるのはその現われ方である。
「はてしなきメイキャップ」
無意願望の第一はこの完全を追求する要求である。
演壇に上ると何故固くなるのか、固くなれぱふだんより下手に歌ってしまうことは判りきっているのに固くなる。何故か。自分の能力より上手に歌おうとするからである。そんな願望さえ持たなかったら気楽に歌えるであろうに、これ亦完全を求める要求である。然し中にはあの人より巧くとか、大勢の人に巧いと思われようとするような直接型対立。
孤立型内攻現象としての「俺は駄目だ、疲れた」とか「能力がない」とかいう劣等感もまたメイキャツプの一種に相違ない。意識しないメイキャツプ、この裏には「素顔は美しいのだが、ここに傷あとがあるので」と言い度い言葉が隠れている。
また学生の試験間際の虫垂炎とか、出世しない会杜員の神経衰弱とか、若い女房を持った男の喘息とかは「能力はあるのだが病気なので」という言い訳のカムフラージュである場合が多い。
「願望の出発点」
人間の意識的行為のうしろにはいつも無意行為があり、無意行為には意識しない願望や要求が潜んでいる。しかも意識的動作は意識して行なうのかと思うと必ずしもそうではない。
叱言でも終った後で「キットですよ」と駄目押しをすると逆効果になる。それは何故か。無意の対立が産れそれが反抗心を誘導するからである。当人の頭の方は納得しても、体のエネルギーが反撥するのである。
無意の願望なり、要求なり、意識以前のものを突き詰めてゆけば、形のないエネルギーに突き当たる。そのエネルギーの方向が無意の願望とか表現以前の要求とかいうものである。それ故にこれらの奥には圧縮された余剰エネルギーがある。実際人間の願望なり、要求なりを突きつめて行けぱ必ずこれに突き当たる。これを性欲として取出すか、その昇華による他のはたらきとして取出すか、ともかく指導の技術の問題である。
投写性対立にしても、反射性対立にしてもその下に性の動きがある。之がなければ対立は生じない。人間の種子に関する本能の現われを無視して人間の行動は理解出来ないと知る可きである。
性の昇華分散に気がつけば、訴える人の訴えの中に嘘があり、見栄があり、誇張があったとて、それを間違いだとか、大袈裟だとか、騒しているとか、気取っているとか指摘して得たりとするようなこともない。又あってはならない。人間は元来、そういう構造をしているのであり、その構造によって動いているのである。
出鱈目に見える嘘や誇張の中にでも一定の表現方向があり、それが感受性の方向を示すとともに内部的欲求状況を表現している事実を見逃す可きでない。誇張だとか嘘だとかいっているうちは訴えの中に真実を見る力がないからに他ならない。