SOKA薬王のBlog

SOKA薬王のBlog

太田昭宏「真っ向勝負」3


ライフストーリー3「政治」


太田は、大きな志を抱いて京都から上京した。
政治や経済を洞察する力を養った公明新聞の国会記者時代。政界の表舞台で実力を発揮するまでには、陰の労や試練をくぐり抜けなければならなかった。


「印刷工場からのスタート」


昭和四十六年、公明新聞の面接試験会場に、一風変わった若者が現れた。
 

借りてきた猫のようにかしこまった入社志願者が多い中で、面接官に対し「私は入社後、政策の仕事をしたいといます」。自信満々である。さらに「中道政治とは何でしょうか」と質問までしてきた。京都から上京してきた太田である。
 

面接官も黙っていない。「きみは、雑巾(ぞうきん)がけができるか!」。鼻っ柱の強い太田との間に火花が散った。さらに、たたみかけるように「うちはエリートはいらない。いい味で、くせのある人間が欲しいんだ」。太田の東京における波乱万丈の日々が始まった。
 

太田の最初の職場は、国会の記者席でもなけれぱ、公明党本部内の編集フロアでもなかった。東京の浜松町駅から徒歩七、八分、深夜まで人の出入りが絶えない印刷工場だった。公明新聞の整理・校閲部門が入っている東日工場である。ここで太田は一年半の間、校閲と整理の仕事にたずさわった。
 

校閲記者は、目をさらのようにして、ゲラ刷りの中から活字のミスを発見し、赤字で訂正していく。整理記者は、倍数尺と呼ぱれる独特の定規をあやつりながら、記事と見出しと写真を読みやすくレイアウトする。どちらも地味な裏方の仕事だが、新聞製作における重要部門であり、ここで訓練を受けてから取材記者として、第一線に飛び出していくケースが多い。
 

太田は朝、工場に出勤すると、まずエンジ色の作着に着替えた。背広やワイシャツのままだと、たちまち活字のインクで台なしになってしまう。足下はサンダルぱきの軽装。今ではコンピューターによる紙面製作だが、当時は鉛でできた活字を組んでいた。実際に紙面を組む段階では、東日工場の従員と共同作になる。こちらの指示どおり、ピンセットで器用に活字をつまみ、誤字や字詰めを直してくれる。