「戦後五十年の生き証人」が語る6
【田原】昭和39年の11月に公明党が結成されました。そもそも公明党をつくったのは池田さんだとか。
【池田】そうだったかなあ(笑)。
【田原】『私の履歴書』にもそう書いてあります。
【池田】そのとおりです。もともとその土台は戸田会長が作りました。ただ、弁解のようになるが、本当は私は衆議院には出したくなかったんですよ。戸田会長も「衆議院には出さないほうがよいと思う。出すとお前が誤解される」と言っていました。しかし、当時の議員たちが「衆参両院なければ本当の政治はできない」と言いはじめた。だから、これも時代の流れ、社会と人心の動きというものと思い、時代に即応してゆくことが正しいと判断したものです。
【田原】公明党が結成された当時、世間では、公明党――つまり創価学会は、「王仏冥合」「国立戒壇」を目指していると言われました。これは事実ですか。
【池田】事実です。ただ、当時は創価学会は発展段階的には少年期でした。布教もしなければならないし、その上に選挙の支援もしなければならない。戦後、創価学会は戸田城聖会長を中心になって、荒廃した社会を精神的に救済するために活動をはじめたわけですが、とにかく、前進しなければならないから、ゆっくりと協議をせず進んでいたことは事実です。いわゆる台頭期であり混乱期でした。昭和39年の段階でも、それが続いていたわけです。そんななかで、深い吟味もせず、表面的な教義をとりあげて、「国立戒壇」とかの名称を使ったりした。
【田原】外野は、「王仏冥合」は政教一致、「国立戒壇」は日蓮正宗の国教化だと見てしまいますね。
【池田】世間がそうとったことは事実です。ただ、「王仏冥合」も「国立戒壇」も、もともとは仏教の言葉ですから、いろんな解釈ができる。創価学会内部で議論して、一致した解釈を打ち出す前に、言葉だけが独り歩きしてしまったわけです。「王仏冥合」にしても政教一致という意味ではない。「王」とは政治、社会、文化の次元、「仏」とは仏法の次元です。つまり、仏法の説く慈悲の心をもって政治をしよう、という意味なんです。