SOKA薬王のBlog

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「人間主義の内実を問う」より3


人格や友情を磨く信仰こそ


人間主義の二つ目の要素は、「無差別」である。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と言う。各宗派間で議論を戦わせることは大切だが、無差別・平等という人間主義をベースにしなければ、喧嘩(けんか)や宗教戦争に落ち込んでしまう。「…釈迦の恥」とは、その歴史に学んだ経験則である。


       ---<略>---


昭和48年(1973年)の学生部夏季講習会で、誉会長は「比較論上、われわれの主張と一般社会のもろもろの主義主張とは、どこがどう違うのか」との質問に答えられた。


そのさい、「一般社会の主義主張は、必ず限定的な質をもっているということである。たとえば『自由主義』というときは、すでにそのなかに『社会化』と対立し、相いれない限定の主張が内在している」と。


物事には、必ずと言ってよいほど限定や排除がつきまとう。その結果、他者を自己の主張する型にはめ込もうとしがちである。しかし法は、“こうでなければならない”という定型化に重きを置くのではなく、変化し続ける状況に即して、どうあるべきかを洞察する。


更に、「AB相反している場合でも、AのなかにもBのなかにも入り込んでみがきあげていく――これがわれわれの特徴であろう。そしてこれは、けっして無原則主義とは根本的に違う次元の方程式である」と。


AとBが相反する場合にも、どちらかを取り、どちらかを捨てるのではなく、Aの中にもBの中にも、“そこに人間がいる限り”入り込んで磨きあげていく――。「人間主義」という言葉こそ使っておられないが、すでに四半世紀前に「人間主義」の本質が示されている。


「結合」は善 「分断」は悪


 「限定」「定型化」によって人間を差別してはいけない――これは我々にとっても重要な指針である。ある懇談会での指導が忘れられない。


「ともかく、人間を差別してはいけない。信しているから良い人、信していないから悪い人などという考えは間違いです。人権問題です。そこを勘違いしてはいけない。信していなくても、信していながら、卑しいで反逆していく人間なんかより、良い人がたくさんいるではないか。私は、世界中にそういう友人をもっています」と。



“信しているから良い人”“信していないから悪い人”などと差別しては絶対にいけない。それでは世間と学会の間に、知らず知らずの間に、垣根を作ってしまう。


法即社会といっても、“法読みの法知らず”になってしまう。それでは、どうしても、組織にオンブする“内弁慶”の信になってしまい、外部と本当の対話を交わすことはできない。


聖教新聞の“寸鉄”を通して教えてもらったことがある。学生運動のゲバルトの激しかったころ、秋の学生祭のシーズンを迎え、学生部員にエールを送るつもりで、「各地の大学祭で、学生部員が舞っている。暴力と荒廃のキャンパスに、慈悲と英知の波や滔々(とうとう)」と。


これに対し“怖いことだ。君たちにまかせておくと、学会と世間との間に垣根を作ってしまう”と厳しく叱られた。そして、後半部分を、次のように手を入れてくださった。


「――母校を愛するが故に、自身と学問の研さんの上にその動きや尊し」と。


違いは明らかであろう。前者は、識せずして、「信しているから良い人」「していないから悪い人」という落とし穴に落ちこんでしまっている。「法読みの法知らず」である。後者は、学生部員も世間の学生も共通の課題――母校愛、自己と学問の研さん――に挑戦し、がんばり、輝いているがゆえに、人間主義の勝者なのだ、とされているのである。


「定型化」による差別は、悪である。反人間主義である。なぜなら、人間を互いに反目させるからだ。逆に、無差別は、人間と人間とを結びつける故に善である。「結合は善」「分断は悪」とのテーマは「池田・ゴルバチョフ対談」でも何回も語り合われている。


我々の運動は、この善と善の連帯の波である。“結合は善”の人間主義に立脚した運動である。これこそ「人間の紋章」である。私たちは、それぞれの立場・分野で、この善の連帯を大いに広げていきたい。



人間主義に立脚した行動を、索を今こそ(福岡・久留米文化会館で)おわり