SOKA薬王のBlog

SOKA薬王のBlog

ある指導者の愛12

 まして、自分のことを忘れて、ギリギリの気持ちで相手の幸福を祈るなんてことは、天才、凡人を問わず、ふつうはめったにできるものではない。


 ――そのひとはそれをやっているのだ。なぜそんなことができるのか? そのひとのこうした独特な精神作用を、私たちは何と呼んだらいいのか?いろいろな呼び方があると思う。しかし私は、これをやっぱり「愛」と呼びたい。


 いままでの愛をこえた、新しい大きな愛のひとつのかたちだと考えたい。「いままでの愛」も、それが激しく燃焼する場合、相手を自分の胸に強くきざみつけることができる。相手のしみを自分もともにしみ、相手の歓喜を自分もともによろこび、自分の身を忘れて相手の幸福のためにすべてをささげることができる。


 しかし、こうした「いままでの愛」は、たとえそれが最高に純粋に燃焼した場合でも、いや、最高に純粋であればあるほど、一人の相手のためにしか燃焼しない。まさに「世界は二人のため」で、相手以外の人の幸不幸なんかどうでもよくなってしまう。


 だからさきに述べたように、ほほえましい恋人たちが、ドライブの真っ最中、人をひき殺しても何も感じないようなことになる。ベトナムの残虐米兵が、恋人にとってはこのうえなく誠実な青年だったというような矛盾もおこる。つまり「いままでの愛」は、何度もいうとおり、「二人きりの閉ざされた愛」で、二人だけのエゴイズムから決してぬけだせないのである。


 そのひとのような「新しい愛」は、このような愛のエゴイズムをこえた、おおぜいのひとたちのための愛なのだ。「二人だけの世界」から完全に脱皮した「ひらかれた愛」と言っていい。


 それは何にむかってひらかれているか? 最初はおなじ信念の人たちにむかって。職場や地域など周囲の知るかぎりの人たちにむかって。――最終的には人類全体にむかって。


 私はこうした「新しい愛」こそ、これからの人類の「真実の愛」であってほしいと思う。それは「いままでの愛」がウソの愛だという意味ではない。しかし、人間が他人への無理解や残酷さからぬけだして、憎みあわず殺しあわない社会を創っていくためには、「二人だけの愛」ではもう間にあわない。


そのエゴイズムをこえたもっと大きく新しい愛の理念がなければ、人類はますます急速に破壊されていくだけだと思うのである。


「ある指導者の愛」おわり