病人と看病人 16/16
言い損う技術
子供は親の注意を受けて生きているから、親の注意がなくなるということは生活の手段がなくなるということになるので、その集まった注意が本物か偽物かも体で感じて見分けてしまう。病人もそれと同じで、看病人の注意が外れただけで、もう病気に影響する。だから逆に親切すぎる看病人が看病すると、病人の病気を育てることにもなる。ちょっとした動きにも病人は反応してしまう。
もし看病人に過剰の親切を押し売りするような傾向があるとしたら、それは悪い看病人と言わなければならない。更に、過剰な親切で自分を見せるための押し売りをするようになったら、それは悪辣な看病人と言わなければならない。だからといって、見て見ないふりをするというのも親切な看病ではない。
看病は親切でなくてはならないが、それは相手の心の動ぎ、細かい心の動きを知った上での親切でなくてはならない。無関心に通り過ぎるべきところは無関心にし、関心を集注すべき時はそれに集注する。従って看病人は、人間ではなくて狸でいた方が良いのである。
看病人が、自分を始めから狸であると心を決めてしまうと、病人はこれは余り重い病気ではないなと、自然に思い込むことができる。そこで、病人がそれを不平に思い、もっと重く、更に本当に重いもののようにしだした時にも、慌ててはいけない。全く狸を決め込んで守り通す。そうすることによって、それにつられて病人は良くなってくるのである。
けれども狸になれない人が狸ぶる必要は全くない。言い損い、更に言い損いの訂正という、そのようなやり方があるということは、これまでお話した通りである。