病人と看病人 8
看病人とは病気の経過を看る人
看病人は病人を作るために看病するのではない。病人を看病しようという場合に、病気をしている病人を病人にしてしまわないで、健康な人間が病気を経過しているのだとして、その経過を補助するために看病すべきである。今までは、看病している人が、ともすると健康な人間か病気を経過している状態というように見ずに、病人を病人にしてしまっている。庇うことや、親切の押し売りなどで、病人を病人にして看病するというより、病人にしてしまう看病をする。このことで病人の病人精神を挑発してしまう。
健康な人間が、病気の経過をしているのだというのを手伝うようにすれば、これは看病人として、最も良い看病人である。そういう意味で、看病人という言葉を字の如く、病気を看る人と読むと、看病する人は割に病気の経過を看ることができる。ところがこれを、病人を看るとか、看て病人にするとかいうように、病と人とをくっつけて読み、そして好意だとか、親切だとかを押し売りし、ますます相手を病人にし、その人の次の行為を期待させるようにすることが、看病人の務めのような心づもりでいる。
看病人にもそういう注意がいるが、病人自身も、そういう病人にならないで、健康な人間が病気を経過している心づもりで経過しなくてはいけない。病人という呼び名で、人間までが病気に捉えられてはいけない。「体の或る部分を病気が経過している、ごくろうさん」と思えばいい。胃袋が痛んだら「俺は旨かったのにお前は痛めつけられている。かわいそうに、でも辛抱しろ、それがお前の役目だ」。そう言えぱいい。
自分の体は、自分の自動車、自分の笛である。その使い方や手入れを注意することは勿論だが、それが壊れたからといって、自分まで苦しまなくてもいい。ペンキの剥げた車は体裁が悪いから早く治そうと思うが、生きている人間の体は自分で治ってくれる。体にはそういう自然の装置があるのだから「体よ、しっかりやれ」と元気づければ、自分の心は直接つながっているのだから、自分が元気になってさえいれば治りも早い。
体の主人がへぱってしまって「大変だ」と思うのでは、自分自身を萎縮させることになり、体の方も治りようがない。従って看病人も、体のある部分の不便を助けてはやるが、体の主人である人が自力で立ちあがるべく、気力を満たすようにしむけなくてはいけない。