SOKA薬王のBlog

SOKA薬王のBlog

壮年部への指針・磐石なる我が人生


壮年部になったので、書籍「壮年部への指針・磐石なる我が人生」を
読み始めています。その中からに残った指導を紹介します。


「純粋な信仰の輝きを」1


夏季講習会壮年部前期全国指導会 昭和47年816日


縁に左右されない信の確立


初めに、壮年部の皆さんは純粋な信仰を貫ききっていただきたい、と申し上げたい。純粋といっても、それは"きれいごと"をいうのではない。民衆の幸福のために、労を惜しまず、汗にまみれながら、勇気をもって行動していく。そのなかに純粋な信仰があろう。地位、財産、誉などすべてをはぎとって、なおかつ残る人間としての砦に清らかな信仰の輝きがあるということである。


つまり、その人の根底にあるものがドス黒い濁りの生命であるか、その濁流を激しく押し流していく、もっとも強い、源から発する清い生命の流れがたたえられているか……私が間題にしているのは、この本源論である。では、その純粋な信仰の根本になるものは何か。


それは大聖人の「いかたる乞食には・たるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(御書1163P)の御金言に徹することに尽きるといえる。一般的に人は上昇機運にあるときは調子を合わせ、強気でいることができるが、いったん逆境にあうと、あせりと弱気のためにいっさいが見えなくなり、自分さえも見失ってしまう。信の世界にもこのことが指摘できる。


如説修行抄には「然るに我が第子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の来る時は今始めて驚き肝をけして信を破りぬ」(御書501P)と仰せである。この御文をよくよく銘記していただきたい。


大聖人の時代にも、いざがあったときに、不純の人は不信の沼に落ちこみ、自然のうちに淘汰されていった。その一方で、純粋な人が浮き彫りになっている。今日において、純粋た信仰の人とは、たとえどんなことがあっても、大聖人の御金言を胸に、御本尊を守り、正法を守り、和合僧を守りぬいていく人のことであると確信したい。


不純な人は縁に左右されやすく、をまえにすぐ紛動されてしまう。信仰のないところに生命の躍動はなく、したがって、生命の内よりあふれる魅力もない。逆に純粋た信仰者には生命の躍動があり、それがなんともいえないキラリと光る魅力となっている。いかなるがあってもそれを乗り越え、を鋭く見破り、みんなに確信を与え、希望を与えていくのである。


そのような信はまさに"純金の信仰"ともいえるであろう。金はたとえ土中にあろうとも、水中にあろうとも、どこまでも金であるように、"純金の信仰〃は、いかなる逆境にあっても微動だにしない。表面だけの信仰は、かならずいつかは崩れてしまうものである。


壮年部の皆さんは、信だけは、自身のためにも、一家一族のためにも、強盛で、純粋な信仰を確立してほしい。このことがいっさいの原点とたることを明確に確認しあいたい。