育成2
のぐちはるちか・語録
躾の必要、それはある。
命令と強制で、それをすることがいけない。
自発的にそのことを身につけるよう導くことが大切である。
子供は善しと認めねば、善くならない。
悪しと見て、善きへ押しやろうとすると反発するが、
善しと見れば、自発的に善くなりたがる。
然るに悪しと見て躾の工夫をする、これがいけない。
子供の悪きことを言いたくて、子供を善くすることはできない。
母親も教師も、気をつけて欲しいものだ。
子供の行動は親の関心によって移り変わる。
叱る褒めるということの工夫の前に考えておかねばならぬことは沢山ある。
それは何か。
親自身の問題である。
子供が悪い遊びをしていても、親にその悪い遊びをするなかにある子供の智恵を認める心があれば、その悪いことの悪い理由を教えるだけで、子供はその智恵を良いことをする為に使うようになるだろう。
誰だって悪いと知ってから、悪いことをしているのは厭なものだ。悪いことの悪い理由がハッキリ呑み込めれば、自ら悪いことはしなくなる。しかし親が悪い子だと認めて、その悪い悪戯を叱れば、悪いことを平気でするようになる。悪い子が悪いことをするのは、当り前のことである。善い子が善いことをするように、悪い子は悪いことをする。
しかし善い子、悪い子がいるのかというと、決していない。
そう認めることによってそうなる。
悪戯に関心を集めれば、悪戯は育つ。
智恵に関心が集まれば、智恵が育つ。
人はその認めた如くなる。
大人でも子供でも認めた如くなる。
子供を、自分の感情を満たす道具に使ってはならないことは勿論だが、自分の所有物視して、将来自分の便宜の為に役立つようにとか、自分のお化粧の飾りに用いようとかいう考えで育ててならないことは言うまでもない。
だが、このことを意識しないうちに知らず識らず行い、また親切なつもり、母性愛というもののつもりで、いつの間にかそうしている人たちも少なくない。
子供の幸せのために育てるのは無論のことだが、幸福にしているつもりで風にも庇って、他所へ出たら口もきけない弱い子供にしてしまっていることなど、珍しいことではない。子供の世界に大人を持ち込まぬつもりになっていながら、つい褒めたり、認めたりして、子供の楽しさを奪う。
なぜかというと、母親は子供を自分の延長のつもりでいるからだ。
独立した生き物と見ないで世話をやくことに、母親の感情を満たす
何かがあるからだ。