SOKA薬王のBlog

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「週刊読書人」5


【編集部】
第二章には、一九五六年のある女子部の会合で池田室長が提案し「人生の並木路」を歌ったという話が出てきますし、第三章には戸田城聖会長が夕張炭労事件での祝賀の宴で池田室長に歌うように命じ、室長が「霧の川中島」を三回も熱唱した話が出てきます。こういう側面も見なければいけないのでしょうね。


【田原】 
実は、今から数年前に池田氏「中央公論」で対談したことがあります。僕は池田氏には二度会っているんですが、面白いのは、純粋にべらんめぇです。会長を何年もやった人だから、もうちょっとNHKの放送みたいな喋り方をするのかとったらべらんめぇ。何でもパンパン出てきます。こっちが聞いたことに対して全然逃げない。何でも笞える。


例えば、池田氏に、今創価学会は曲がり角にあるんじゃないですか、と。どうしてですか、と聞くから、もともと創価学会は、貧、病、争の中で生まれた。貧しさ、病気、争い。争というのは、だいたい嫁と姑の喧嘩、家庭内の争なんです。貧しいと食えない、食えないとみんな弱気になって落ち込む。そういう人が救われたいと何とかやる気を出したいというのが、貧ですね。


貧しいと医者へも行けない、医者にも行けない人が創価学会の信をして信で病気を治す。それから争、嫁と姑とか家庭内の不和から救われたい。貧、病、争の人々が創価学会に入ってどんどん大きくなった。だけど、今や、貧が無くなり、誰でも病気になれば病院に行ける、核家族になって、家庭内の争も無くなったと言った。

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池田大作の軌跡より


民衆のうねりが起きた

泣くな妹よ 妹よ 泣くな……♪
昭和三十一年。ある女子部の会合。池田室長の提案で『人生の並木路』が歌われた。泣き虫の妹。捨て去った故郷。希望の人生への願い。哀愁を帯びた古賀政男のメロディーには、昭和の世相が色濃く反映されている。


女子部員にとって、歌の世界は、決して人ごとではなかった。少女時代の戦争。父や兄の世代の戦死。集団就職。紡績工場の住み込み。郷里の母への仕送り。女ファッションは華やかになったと言うが、彼女たちのスカートは穴が継いであったり、スーツの下のブラウスは袖がなかったりした。



そんな青春期に出会ったのが、法であった。室長だけが言い切ってくれた。「いくら泣いたって幸せにはなれない。もう泣かない自分になると決めることだ」彼女たちにとって、室長は頼むべき「兄」だった。学会は立ち返るべき「故郷」だった。

「大、歌いなさい」
「はい!」サッと立ち上がる室長。若く、凛々しい声が響いた。


「霧の川中島」である。
戦国の将、武田信玄上杉謙信が繰り広げた川中島決戦が歌われていた。聴きながら、じっと会長は目をつぶっていた。眼鏡の奥からにじみ出る光があった。戸田会長は「もう一度」「もう一度」とうながし、熱唱は三回を数えた。異様とも言える光景に、居合わせた幹部の中には、ある慨を抱く者がいた。


″これは大阪の裁判への出陣の歌ではないか″


初公判の期日が迫っていた。真の決戦は、これからである。そう考えれば、なぜ夕張の祝宴で「霧の川中島」が歌われたか腑に落ちる。その場にいた黒柳明は述懐している。「これから私の弟子が、もう一度戦いに出ていくんだ。戸田先生のお姿には万いがじられてなりませんでした」決戦の舞台は、大阪地方裁判所の法廷に移った。