SOKA薬王のBlog

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私が何十年間も闘ってきた相手は何か。それは、『忘れる』ということに対してなのです。

1999年2月5日(金)聖教新聞
2月度全国県長会議での池田名誉会長のスピーチから
<正義を勝たせよ、執念の闘争で>


 アメリカのロサンゼルスに、ユダヤ人迫害の記録をとどめるセンターがある。サイモン・ウィーゼンタールセンターである。私も招かれて、牧口先生の殉教について、講演した。(1996年9月)先日も代表が、ホロコースト展のために、来日された。このセンターの名前は、ナチス強制収容所の生き残りである、サイモン・ウィーゼンタール博士の名前から取っている。


 博士は、今年91歳になる。今なお、オーストリアのウィーンで、ナチスの悪を追求する闘いを続けておられる。悪人達からは『ナチハンター』と、恐れられてきた。これまで、発見して法廷の裁きにかけたナチスの残党の数は1200人。博士の闘いによって、ナチスを永遠に許さない、という国際世論は高まった。逮捕されなかった人間も、恐れおののいて、枕を高くして眠ることは、永久にできなくなった。悪人がどこに隠れていようとも、草の根を分けてもの執念で、世界中の情報を集め、ありとあらゆる方法を考え出して、悪人を追いつめてきた。しかも、博士は、いかなる公的機関の支援も受けていない。民間人として、個人的な寄付に支えられて、活動を続けてきたのである。敵からたたかれ、妨害され、命を狙われ、悪評のデマを流されながら。博士は、世界各国から、栄誉や勲章、名誉博士号を受けたが、国内では批判にさらされてきた。博士は言う。


「私が何十年間も闘ってきた相手は何か。それは、『忘れる』ということに対してなのです。」


戦後すぐの時期は、ナチスへの怒りに燃えていた人々も、時間とともに、「もういいじゃないか。」という雰囲気になってきた。被害者であるユダヤの同朋にさえ、「もう嫌なことは忘れたい。」という空気があったという。「もう時効にしよう。」という動きもあり、実際、時効が成立する寸前までいった。しかし、博士は叫んだ。


「道徳上の義務に時効はない。正義の実現に期限なんかない。」
博士等の運動によって、ドイツ・オーストリアは、殺人と、殺人幇助について時効を廃止した。徹底的に、悪は根絶やしにしなければ、将来また、悲劇は繰り返される。そんなことが許されようか。6百万人(注:六千万人)ものユダヤ人が殺された。博士自身も、十数もの強制収容所を転々として、生き残ったのは、奇跡でしかなかった。だからこそ、生き残ったものの義務として、人々に、断じて忘れさせてはならない。と、闘い続けるのである。


 創価学会も、宗門と、党の悪人に、一千万の同士の真心が踏みにじられた。皆がどれほどの思いで彼等を支え、護ってあげたことか。選挙の支援活動の途上で、事故で亡くなった人もいる。信念のために殉じた。いわば、殉教である。その人達の犠牲を思っただけでも、議員の裏切りは、断じて許せない。坊主についても同じである。永遠に許してはならない。


 博士は、訴える。「忘れたいなんて、安直すぎる。」と。
[私達が死んだら、みんな天国へ行くだろう。天国では、ホロコーストの犠牲者達と一緒になる。彼等は、私達に先ず聞くに違いない。『君たちは、運がよかったね。生き延びたんだから。君たちの余生は贈り物だ。その贈り物を君たちはどうしたのかね。』ある人は言うだろう。「私は、実業家だった。」また、ある人は言うだろう。「弁護士をやっていた。」次の人は言うだろう。「教師をしてました。」
私(サイモン・ウィーゼンタール博士)は、こう答えるだろう。『君たちのことを忘れなかったよ。』(『ナチ犯罪人を追う』下村良和訳・時事通信社)]


 今、日本も戦争の悲惨さを忘れさせよう、アジア侵略の歴史も忘れさせよう、という風潮が高くなっている。極めて危険な傾向である。だから、私達が立ち上がる以外にない。博士の執念に対して、いつもこう言われた。「もういいじゃないか。そんなに神経を尖らせることはない。悪人とは言え、個人をそこまで追求するのは、やりすぎではないか。」非難ばかりであった。しかし、博士は、断固として追求をやめなかった。


「私は、個人的な復讐を求めているのではない。私は正義を求めているのだ。悪事を犯した人間を、そのままのうのうとして、安楽に生きさせたとしたら、この世の正義はいったいどこにあるのか。社会は、正義の土台が崩れてしまう。人間性への信頼を取り戻すためには、絶対に悪を放置してはならないのだ。」