内道・表現者
本日の茂木健一郎氏のblogより抜粋
どんなにひどい曲解をされても、真意をつかんでくれなくても、我慢しなければならない。自分の表現がまだ拙いからわかってもらえなかったのだと、修練による向上を志向しなければならない。だから、表現者という者は、長く真摯な経験を積んだ者ほど、じっと耐えている気配をにじませるようになるものである。そこには一つの諦念がある。
未熟な時には、誤解にいちいち傷ついたり憤慨したりするものだが、やがて古傷は癒え、魂の表面が年経た樫の木のような風合いを見せ始めた時に、その人は本物の表現者となる。
逆に、鑑賞者の側から見れば、油断するなということである。自分という「楽器」が鳴り損なうということだってある。決めつけて安心してしまえば、安泰だが、それでは自分というものがどんどん狭くなっていってしまう。
決めつけて通り過ぎてしまう人は、いつまでも浅い岸辺を泳いでいるようなもので、サンゴのある沖はもちろん、そこから急に落ち込んで深淵に至る大海を知らずに一生を過ごしてしまうのである。
仏法対話で自分の気持ちがなかなか上手く伝えられない時や、その相手を観る自分のことにも通じますね。仏法は内道、外(他人)のせいにするのでなく、内(自分)の中を制すること。境涯を広げ仏法の表現者になろう!
全文はこちら→「表現者はいいわけをしてはいけない」